湾岸戦争 –地上戦–
地上戦に先立つ1991年2月23日、イラク軍はクウェート国内の油井145本に火を放ち、上空を黒鉛で覆い尽くし、地上戦での連合国軍機の航空支 援を阻害しようとする。しかし、電子機器が高度に発達した現代では、ほとんど意味を持たなかったばかりか、地球環境の破壊者と言うレッテルまで貼られるこ とになってしまった。
翌2月24日の現地時間午前4時、連合軍 の地上部隊は当初の予定より1時間遅れてイラク軍への総攻撃作戦「デザート・セイバー」を開始した。攻撃の先陣を切ったのは左翼に展開する第18空挺団隷 下の4個師団で、その一部は前日の内にイラク領内の国境付近で橋頭堡の確保に成功していた。
同部隊の最も西よりに配備されていたフランス第6軽機甲師団は、戦力強化の為にアメリカ第82空挺師団第2旅団を加えた編成で国境を越え、国境から 100kmほどの位置にあるイラク軍の軍事拠点「アス・サルマン」基地を目指した。部隊は同基地を占領後、ここに補給拠点「ホワイト」を開設する手筈と なっていた。前進開始から数時間後、イラク軍第45歩兵師団の陣地にぶつかったが、連日の空爆で補給、指揮系統を分断されて士気を失っていたイラク軍はわ ずかな抵抗を見せただけで降伏し、2500人のイラク兵が捕虜となった。その後、イラク軍の抵抗らしい抵抗にもあわず、フランス第6軽機甲師団は同日昼過 ぎにはアス・サルマン基地を包囲下に置く事に成功した。この部隊の右翼に展開していたアメリカ第101空挺師団は、午前7時5分に大規模なヘリボーン作戦 を開始し、125kmほど前進した道路の分岐点に到達し、ここに前進基地「コブラ」を設営して燃料補給所とした。
第18空挺団の右翼を担当するアメリカ第24歩兵師団は、他の2個師団から遅れて午後3時ごろにイラク領内に進出した。この師団はM1A1「エイブラムス」 MBTを241輌、M2「ブラッドレー」IFVを221輌装備しており、イラク軍が化学兵器で攻撃してきた時に備えて防護服を着用したまま慎重に北へと前 進していった。
連合軍の中央部に展開する連合軍第7軍は、総勢14万人の兵力と戦車1400輌、歩兵装甲車1200両を擁しており、当初の予定では地上戦開始2日目に攻撃 を開始する手筈となっていた。しかし、第18空挺団が予想以上の進撃を行なっているとの報告を受けたシュワルツコフは、計画を変更して24日午後3時にイ ラク領内への進撃を開始するよう命令した。
イラク軍は、第7軍 団の担当正面に比較的多くの部隊を配備しており、第一線に4個師団、第2線に3個師団(内1個機甲師団)の兵力を展開し、地雷原と鉄条網、土塁のなどの障 害を築き連合軍と対峙していた。アメリカ第1歩兵師団は軍団直轄の第7工兵旅団と共にイラク軍に対する攻撃を開始し、工兵隊は、車体の正面におおきなショ ベルを装着したM60A1を前面に立てて敵陣に迫り、対戦車壕を崩した後に塹壕に篭るイラク兵諸共生き埋めにしてしまった。イラク軍は、後方で擬装してい た砲兵を投入して米軍に対抗しようとしたが、この砲撃は逆にイラク軍砲兵の場所を教えてしまう結果となり、MLRSによる対砲兵射撃と空爆によって粉砕さ れてしまう。第7軍を構成する残りの3個師団(米第1、第2機甲師団および英第1機甲師団)は工兵隊が啓開した突破口から戦車部隊を送り込み、多数のイラ ク兵を捕虜にしながら前進していった。
2月24日には、この2 個軍団に加えて、第18空挺団から第7軍右翼へと分派されたアメリカ第1騎兵師団と、クウェート国境の東部に布陣する海兵隊がそれぞれイラク軍に対する攻 撃を開始していた。第1騎兵師団は、クウェート-イラク国境沿いを走る涸れ谷ワジ・アル・バーチンの西側に沿って前進し、陽動作戦を行なった。一方の海兵 隊所属の第1、第2海兵師団は、陸軍から臨時に編入された第2機甲師団第1機甲旅団のM1A1戦車に支援されながらクウェート領内に突入し、日没までに 30km前進して約1万人のイラク兵を捕虜にした。
翌 25日には、連合軍の攻勢はさらに勢いを増し、とりわけ第18空挺団は目覚しい進撃を続けていた。予備として後置されていた第82空挺師団も、地上部隊と して前進を開始し、各師団の先頭部隊は各地で数百名単位のイラク兵を捕虜としていた。この頃になると、投降した捕虜の供述などから国境付近に配置されてい たイラク軍の実情がほぼ解明し、それによると、1ヶ月以上に渉った空爆で指揮系統と補給線を分断されたイラク軍は、備蓄食料を食べ尽くしており、完全に戦 意を喪失していた。また、陣地防御の頼みであった砲兵部隊が事前の空爆と砲撃で壊滅しており、その絶望感からほとんど抵抗せずに部隊規模での投降が続出し ていた。しかし前線からの報告によると、戦意喪失には効果があった空爆も、イラク軍の地下壕の中までは被害が及んでいない事が大半であり、掩蔽壕に篭るイ ラク軍に対し、空爆だけではたいした損害を与えていない事が判明すると、シュワルツコフは各部隊指揮官に対し前線を覆いつつある楽観的ムードを払拭するよ うに厳命した。この段階で連合軍部隊はまだイラク軍最強と言われる「共和国防衛隊」に遭遇していないという現実があった。
地 上戦が開始される以前、イラク側は連合軍の攻勢がクウェート正面に指向されるものと想定しており、この地域に多くの部隊を展開させていた。ペルシャ湾から ワジ・アル・パチーンまでの200kmに渉る国境沿いの前線からクウェート市周辺に19個師団を配備しており、さらにワジ・アル・パチーンからイラク南部 の要衝バスラに至る約150kmの地域に共和国防衛隊の5個師団と湾岸戦争勃発後に編成された3個機甲師団が機動予備として配備されており、連合軍がク ウェート正面で攻勢を開始すれば、西側面から反撃する手筈になっていた。こうしたイラク軍の防御計画は、連合軍の主攻勢がワジ・アル・パチーン西側に設定 されたことによって裏目に出てしまった。第18空挺団の進撃がクウェートとバスラを結ぶ幹線道路に向かって時計回りに進んできておりおり、圧倒的な敵制空 権下で満足に移動もできないイラク軍は、退路を断たれてクウェートで包囲される危険性が出てきてしまった。一方のクウェート正面を担当する海兵隊の2個師 団は、敵の配置兵力が多かっただけに投降してくる捕虜の数も膨大な数となり、遂には捕虜を後送するための車両がなくなってしまい、これ以降に投降したイラ ク兵捕虜は武器を取り上げられたうえで、勝手に南へ歩いていけ、と指示されるようにまでなってしまった。また、海兵隊は本来長距離の陸上行動を想定した編 成とはなっていないため、イラク軍の密度が高い地域を進撃するにつれて軍全体の機動力が鈍り始めた。
第 1海兵遠征軍の両隣には、エジプト第4機甲師団と第3機械化歩兵師団、シリア第9機甲旅団、サウジアラビア第4機甲旅団、第20機械化歩兵旅団から成る 「アラブ北部合同軍」が左翼から、サウジアラビア、UAE、カタール、オマーン、バーレーン、自由クウェートとその他イスラム諸国舞台で構成された「アラ ブ東部合同軍」が右翼からクウェート開放に向けて進撃する計画となっていた。アラブ諸国の軍隊をクウェートの解放を主任務とする戦線に配置した背景には、 アラブ諸国の民族的感情に対する政治的配慮からであったが、東部合同軍は2月24日、海兵隊とともにクウェート領内に入り、ペルシャ湾沿いに20kmほど の地歩を確保していたが、北部合同軍のエジプトとシリア軍は、攻撃開始日の2月25日になっても動く気配を見せなかった。戦争終結後に他のアラブ諸国との 関係悪化を恐れての事であった。この事態をある程度予想していたシュワルツコフは、第1騎兵師団を移動して間隙を塞ぐよう命令した。エジプト軍は本国と協 議の末、ようやく国境を越えて前進することに同意したが、シリア軍は結局、翌日までクウェート領内への進撃を拒みつづけ、サウジアラビア国王の計らいも あって地上戦の全期間中後方部隊として行動し、一度もイラク軍とは交戦しなかった。
2 月26日の午前1時半、イラク国営放送はクウェート領内に展開しているイラク軍に対し、クウェート進行前の国境線にまで退却するようにとの声明を発表し た。この声明を聞いたパウエル統合参謀本部議長とシュワルツコフは協議の結果、攻撃は当面続行し、イラク軍を叩けるだけ叩いておくべきだと線で合意し、前 線司令官に檄を飛ばした。この瞬間、地上戦は停戦協定の設立時期を見据えた「時間との戦い」へと移行した。午前11時、フセイン大統領は国営放送を通じ、 クウェート領内からの撤退は本日中に完了するであろうとの声明を発表した。現実にはクウェート領内の全部隊が一日で撤退することなど不可能であるが、撤退 という事実を内外に知らしめ、それによって連合軍に対する政治的圧力を高めることがこの演説の目的であった。フセインの演説から1時間後、ソ連が仲介役と して停戦の可能性を議題とする国連安保理の開催を要請したとの速報が飛び込んだ。ソ連のゴルバチョフ大統領は、当初イラクから距離を置いて傍観する立場を 取っていたが、イラク軍の装備する新旧のソ連製兵器が成す術もなく破壊されるの様子が連日映像で放送されるのを見て、ソ連国内の軍と兵器産業の面子を守る ためにも行動を起こさざるを得なかったのである。
ソ連が停戦交渉に向けて動き出したとの報を受けたパウエルは、依然として慎重策を採り続けているように見えていた第7軍に対する不信感を露にし、シュワルツコフを通して叱咤した。実際には、第7軍の各師団は26日早朝からブサイヤに布陣する敵兵に対し攻撃を開始していたが、戦場一帯は激しい砂嵐に見舞われており、各機 甲師団は全身もままならないような状態であった。それでも第1、第3機甲師団、第1機械化歩兵師団、そして軍団直轄の第2機械化騎兵連隊は、英第1機甲師 団に側面を守られながら一つずつ敵拠点を潰していったが、突然それまでの敵とは反撃の仕方が異なる部隊に遭遇する。第7軍の攻勢方向に展開していたのはイ ラク軍共和国防衛隊第3機械化師団「タワルカナ・アル・アラー」で、同師団は第12機甲師団と共に地図上でいう「73イースティング」で米第2機械化騎兵 連隊に襲い掛かった。
同連隊はM1A1戦車130輌、M3A2 歩兵戦闘車110輌、M113APC50輌、M557コマンドポスト30輌、M109自走砲24輌、AH-64を含むヘリコプター80機を装備し、主任務 は第1、第3機甲師団の前衛としてイラク軍警戒線を突破し、突破後には敵主力を捕捉、捕捉後は本体と交代して第3機甲師団右側に展開し警戒線を張ることで あった。イラク軍は同戦場に220輌の戦車と622輌の各種装甲車を投入し西向きに布陣していた。第2機械化騎兵連隊はこの戦争を通じて初めて危機的な状 況に陥ったが、戦場を覆う砂嵐の中イラク軍のT-72戦車が照準手間取っている間に、M1A1の優れたFCSは確実にT-72を捕らえ、装備する 120mm滑腔砲から発射されたAPFSDSが次々に命中していった。結局前哨戦で8輌、主戦で28輌のT-72と16輌のBMP-1を撃破され、状況の 不利を悟ったイラク軍指揮官は、砂嵐に紛れて戦車の残骸を残したまま退却していった。
地上戦開始以来、一部部隊を除き満足な抵抗を見せることなく崩壊していった感に見えるイラク軍だが、その原因は決して空爆による継戦能力の低下だけではな かった。イラク軍は1980年から8年間続いたイラン・イラク戦争による高級将校の喪失に加え、その後軍上層部で起こった半フセイン勢力に対する粛清で多 くの有能な人材を失っており、正規軍の士気は、イ・イ戦争開始時に比べて大きく劣っていたのである。しかし、事実上フセイン大統領の直轄指揮下にある共和 国防衛隊は、そのような人的損失も最小限に抑えられ、連合軍の猛烈な空爆下にあっても旺盛な士気を保ち続けていた。激戦の末にブサイヤを占拠した第7軍 は、前進を続けることよりも、前線部隊と国境の間にいる孤立したイラク軍残党の殲滅を優先し、部隊を反転して南へと向かわせようとしたが、シュワルツコフ は東へと進撃し、共和国防衛隊を捕捉殲滅するよう強行に指令した。26日夜半に第7軍はイラク軍「タワルカナ」師団隷下の第9機甲旅団と第18機械化旅団 に襲い掛かり、砂嵐から大雨と変わった中、第2機械化騎兵に替った第1歩兵師団が先陣を務めた。対するイラク軍は「蜘蛛の穴」と呼ばれた連結陣地と、ダッ クインさせたT-72戦車で応戦したが、この戦闘でもM1A1戦車は夜間悪天候下で優秀なFCSの威力をまざまざと見せ付け、T-72を含む300両以上 の走行車輌を破壊し「ノーフォーク」地域の敵を一掃した。
第7 軍の共和国防衛隊に対するサーチ・アンド・デストロイは翌27日も続き、前夜に激戦の部隊となった「ノーフォーク」の北側を進撃していた第1、第3機甲師 団は、バスラの西南西約100kmの地点で共和国防衛隊第2機甲師団「メディナ」の戦車部隊と遭遇する。米空軍の誇る戦車攻撃機A-10と攻撃ヘリが飛び 交う中、双方の戦車数百輌が入り乱れる大戦車戦となったこの戦場で、やはりM1A1はその優秀性を遺憾なく発揮し、イラク軍戦車を一方的に破壊して戦場の 主導権を奪っていった。同日夕刻、大損害を蒙った「メディナ」師団は残存兵力を北へと交代させていった。この「メディナ・リッジ戦車戦」と呼ばれる戦闘 は、湾岸戦争の地上戦における最後の激戦となり、その後は壊走するイラク軍を追っての追撃戦へと移行する。
追撃戦は、戦線背後にあるユーフラテス河に掛かる橋が空爆によって全て落とされていたこともあってイラク軍の退却は遅々として進まず、河の南岸に沿って走る 国道8号線は敗走するイラク軍部隊の車列によって埋め尽くされており、連合軍の攻撃機とヘリコプターはこのイラク軍を一方的に撃破していった。
ク ウェート正面の戦線では、海兵隊とアラブ諸国軍クウェート奪回作戦が大詰めを迎えようとしていた。2月27日の早朝、サウジアラビア軍のM60戦車を戦闘 に、政治的配慮からアラブ諸国軍の部隊がクウェート市内へと入った。イラク軍は既に北へと退却した後で、クウェート市民の熱狂的な歓迎に迎えられながら 「アラビア通り」を凱旋行進した。クウェート市内からバスラへと通じる道路には、依然としてイラク軍将兵が北へと退却を続けていたが、クウェート国内での イラク軍の抵抗はほぼ完全に鎮静化し、イラク軍の国連決議第660号の不履行によって発生した連合軍の武力行使はここにその目的を達成したのであった。
2 月27日の深夜、イラクは国連に対し国連決議第660号の受諾を正式に通告し、これを受けたクウェート国からイラク軍が一掃されたことによって当初の戦争 目的を達成したブッシュ大統領は、残存するイラク軍部隊を殲滅すべきという軍上級指揮官の意見を退け米東部時間の午後9時(現地時間では翌朝午前5時)、 テレビ演説で連合軍の勝利を宣言した。シュワルツコフは当初、パウエルと相談してペルシャ湾上の戦艦「ミズーリ」を停戦会談の会場にしようと考えたが中止 され、クウェート国境から3kmほど北にあるサフワンというイラク軍の飛行場をその会談場所に指定した。フセインからイラク側全権大使として派遣されたア ハマド中将とシュワルツコフを長とする連合軍側の代表団は、捕虜の即時変換、クウェート内に埋設された地雷原の除去、停戦ラインの設定などの内容を吟味 し、イラクが連合軍側の要求を全て受け入れることで終了した。俗に「100時間戦争」と呼ばれるこの戦争はイラク軍の完全な敗北と言う形で幕を閉じ、連合 軍側の約150人の戦死者と37名の行方不明者、330人の負傷者に対し、イラク側は研究者の間で数字に差はあるものの、12,000〜17,000人の 戦死者・行方不明者と35,000人前後の負傷者を出し、人的損失の割合では実に1対100という圧倒的な勝利で終わり、ベトナム戦争の後遺症で苦しんで いたアメリカ軍は、この一線で完全にそのトラウマを払拭し、世界最強の軍隊としてその自身を取り戻す事に成功したのである。
空爆開始<<地上戦>>ライブラリーインデックス
湾岸戦争 –空爆開始–
1991年1月16日現地時間午後11時ごろ、サウジアラビア領内から発進した米第101空挺師団所属のAH-64が9 機、UH-60が1機からなる編隊が、イラク国内に侵入した。この部隊任務は、連合軍の空爆に先立ちイラク軍の早期警戒レーダー施設を破壊する事であっ た。この攻撃でイラク防衛網に小さい穴を穿ち、ここから首都バグダット及びその周辺の軍事施設をめがけF-117A“ステルス”攻撃機が飛び込み、それに 呼応してペルシャ湾に展開する米艦艇群からBGM-109「トマホーク」巡航ミサイルが発射された。これは、ワルシャワ条約機構軍以外では最強と言われた イラク軍の防空網を破壊するために米軍が描いた巧妙なシナリオであった。
首都バクダットを攻撃されたイラク軍は、闇夜に現れた突然の侵入者を排除すべく、防空レーダーを一斉に起動した所でSAM破壊任務に就くF-4GがEF- 111Aに支援され、南から侵入し脅威率の高いレーダーから破壊していった。空軍とほぼ同時に、海軍のEA-6Bに率いられたF/A-18とA-7Eが首 都周辺部に西から忍び寄り、この方面のレーダーを徹底的に破壊した。攻撃開始3日目には、発射されたイラク軍の保有するSA-2、SA-3、SA-6など のレーダー誘導式SAMのうち、約85%が無照射で発射される効果を見せた。
これら一連の攻撃によって穴だらけになったイラク防空網の隙間から、トルコ領内から飛び立ったF-16C、F-15Eなどが侵入しイラク領内の道路や鉄道、 発電所などのインフラ設備に対し各種誘導爆弾で攻撃を行い、また、クウェート領内のイラク軍基地に対する攻撃は英空軍のトーネードIDS(攻撃機型)や仏 空軍のジャギュアが攻撃を行なった。1月の終わりまでにはイラク領内にあった28ヶ所の発電、変電施設は全て攻撃され、電力供給量は戦争開始以前の4分の 1以下にまで低下していた。また、交通、通信網は言うに及ばず上下水道も大きな打撃を受けており、アラブ諸国の中で最も近代化が進んでいたと言われていた イラク国民の生活レベルは発展途上国でも最低レベルに低下していた。
2月に入り連合軍は爆撃の当初の目的である「イラク軍の指揮系統と防空部隊及び各種工場に対する攻撃」は完了したと判断し、以後は第2段階として「イラク軍 の補給集積所とそのライン」への攻撃へとシフトしていく。これは、言うまでもなく来るべき地上戦に対する準備行動である。一方のイラクは、連合軍の爆撃に 対し新たな局面を作り出そうとした。
1990 年9月23日、フセイン大統領はバグダッドで開かれた首脳会議の席上で「戦争の規模拡大」の方針を明らかにしており、外交努力による戦争回避がほぼ不可能 となった12月24日には、彼はイスラエルの首都テルアビブへの攻撃の可能性を示唆していたが、連合軍による空爆開始の翌日である1991年1月18日午 前3時ごろ、かねてからの予告通りイスラエルのテルアビブとハイファに向けて、旧ソ連製SSMであるR17E「スカッドB」をイラク軍が独自に改良を加え た「アル・フセイン」を発射した。フセイン大統領の目的は、イスラエルをこの戦争に巻き込む事によって連合軍の一画を成すアラブ・イスラム連合軍の結束に 楔を打ち込むことであり、また、当初に予見した通り聖地メッカに異教徒の軍隊を引き入れたことに対するサウジアラビア王室への反発が表面化しており、もし イスラエルが反イラク陣営に加われば、長年イスラエルと対決してきたアラブ・イスラム連合が反イラク陣営から離脱する事も十分考えられることであった。こ の問題を大きくしたくないアメリカは、イスラエル指導部からの勧告もあって、報復攻撃の自重を申し入れ、イスラエル国内にパトリオットSAMを配備し「ア ル・フセイン」SSMの迎撃を行い、同時にイラク西部に展開していた移動式SSM発射装置を空爆によって破壊した。最終的にイラクはイスラエルに向けて計 39発のSSMを発射し、この攻撃による直接的被害で2名の死者と230人の負傷者が出たが、イスラエルの国内世論もあって最後まで報復を自制し、フセイ ンの画策は失敗に終わる。
2月21日、アメリカ中央軍司令部は配下の地上部隊に対し出撃準備を行なうように命令し、その日の夜には地上戦の開始時間が各指揮官に通達された。攻撃開始は現地時間2月24日午前3時、作戦名「デザート・セイバー」が開始される。
クウェ−ト侵攻と砂漠の盾<<空爆開始>>地上戦
湾岸戦争 –クゥエ−ト侵攻と砂漠の盾–
1990年7月中旬、アメリカの国防情報局(DIA)の分析官は、偵察衛星から送られてくるイラク南部の写真に、T72 戦車を主体とするイラク軍1個機甲師団が集結しているのを発見した。分析の結果、イラク軍の最精鋭部隊である「共和国防衛隊」隷下の第1機甲師団「ハンム ラビ」の所属部隊と判明したが、本来首都バクダット周辺に配置されているこの師団が、何故イラク南部に突然姿を現したかは不明であった。翌朝届けられた写 真には、イラク=クウェート国境において、前日に確認された「ハンムラビ」師団の全兵力に加え、共和国防衛隊隷下の第2機甲師団「メディナ」がクウェート 国境付近に展開しているのが見て取れた。さらに翌日には、同じく共和国防衛隊に所属する第3機械化歩兵師団「タワルカナ」の出現が確認され、クウェート国 境に展開するイラク軍の数は7月19日の時点で3万5千人に達していた。
DIA の分析官は直ちにこの情報をまとめて軍の上層部に提出した。これを読んだ統合参謀本部議長のコリン・パウエル大将は、中東地域を管轄する米統合司令部「セ ントラル・コマンド」司令官のシュワルツコフ大将に意見を求めたが、イラク軍の南部国境地帯への集結は、クウェートとの石油利権に関する交渉を有利に進め ようとする恫喝の可能性が高いとの認識で一致しており、限定的な戦闘は起こり得るが大規模な全面戦争に発展する可能性は低い、と思われていた。しかし、米 首脳部の楽観的な予測をよそに、クウェート国境付近に展開するイラク軍の数は日を追う事に増強されていき、7月下旬には8個師団を含む総兵力10万人へと 膨れ上がっていた。しかし、米首脳部は、この行為はあくまでも恫喝に過ぎないとの楽観的姿勢を変えようとはしなかった。その背景には、イラク軍の行動に は、無線交信の増加や補給物資の事前集積といった戦争準備に欠くべからざる要素が抜けており、軍事上の常識から言って考えられなかったからである。実際、 サダム・フセイン大統領が当初計画していたクウェート北部に対する限定的な攻撃から、クウェート全土の併合を目指す全面作戦への転換を決断したのは7月 31日の夜だったと言われており、同国国境に展開するイラク軍には、まだ充分な燃料と弾薬は与えられていなかった。
しかし大方の予想とは反対に、8月1日にもたらされた衛星写真には、イラク軍の共和国防衛隊3個師団を中心とする地上兵力とヘリコプター約80機が攻撃準備 の陣形を整えている姿がはっきりと写し出され、ようやく事の深刻さを悟ったCIAは、イラク軍に侵攻作戦の可能性を警告する報告書をホワイトハウスに出し たが、もはや効果的な対応策を執る猶予は残されていなかった。こうして、偵察手段の発達した現在では不可能とされていた「奇襲による隣国への攻撃」が始 まったのである。
8月2日現地時間午前2時、イラク軍の戦車部 隊が国境を越えてクウェート領内への侵攻を開始した。この時、定数の燃料と弾薬を携行していたのは共和国防衛隊の戦車2個中隊のみで、その他の部隊は必要 最小限の補給物資しか割り当てられていなかった。そのため、イラク側はこの2個中隊(24両)のT-72戦車を部隊の前面に立て、砂漠地帯を道路沿いに南 へと前進していった。
イラク軍の侵攻が開始された時、クウェー トは陸軍部隊1万6千名、海空軍4600名の兵力を保有していたが,」奇襲による混乱で効果的な対応をとることができず、280両保有していた戦車(チー フテンなど)の大部分が、戦わずしてイラク軍の手に落ちてしまった。クウェート空軍は、アラート任務に就いていたミラージュF1戦闘機12機を出撃させて 何とかイラク軍を押し止めようとはするものの、爆装していない戦闘機では効果が無く、イラク軍は軽微な損害しか受けずに数時間で80kmほど前進し、ク ウェート市郊外の町ジャフラへと迫った。
イラク側の計画では、 侵攻作戦の初期段階で電撃的にクウェート市内へと突入し、ダスマン宮殿などの主要な王族の居住地を占領して、ジャビル首長やサアド皇太子兼首相らを拘束す る手筈となっていた。しかし、一般市民には知らされてなかったものの、政府上層部にはイラク軍に侵攻の可能性ありとの警報がもたらされており、国外脱出へ の移動手段が手配されていた。ジャラフを占領したイラク軍は、計画通りそこから30km東へ位置するクウェート市へと進撃し、市内にあるダフマン宮殿を 50両の戦車で包囲したが、その時にはすでにじゃビル首相の一行は隣国サウジアラビアへと続く道路を南へと向かっており、ただ一人残っていた首長の弟であ るシャイフ・ファハドが数人の護衛兵と共に残っていただけであった。ファハドは、続く銃撃戦で戦死してしまう。イラク側の計画としてはクウェート上層部の 王族を捕らえた後に、併合の最後通牒を突きつける予定であったが、取り逃がしたとの報告を受けてフセイン大統領は、反シャビル派による介入要請を受けて侵 攻したという大機名分を掲げたが、この計画と首班として名前を挙げたクウェート陸軍大佐が実は現役のイラク軍将校である事が発覚し、侵攻の正当性を主張し ようとした目論見は、開戦劈頭から脆くも崩れ去ってしまう。
イ ラク軍によるクウェート侵攻の一報を受けたホワイトハウスは、アメリカ東部時間で8月1日午前9時(現地時間2日午前5時)頃で、ホワイトハウス地下の会 議室に設置されたモニターを通じて軍と関係者からの報告を受けたブッシュ大統領は、翌2日午前8時に緊急会議を開いて在米のイラク資産とクウェート資産の 即時凍結措置を発表した。
一方、ニューヨークの国連本部では、イラク侵攻の報せを受けた各国代表が緊急の安全保証理事会を開き、イラク軍のクウェートからの撤退と侵攻前の原状回復を 求める安保理決議第660号を賛成多数で可決した。イラク側ので方を見誤ったアメリカではあったが、この時点では軍事力を行使してイラク軍をクウェートか ら撤退させると言う選択肢は議論されておらず、米上層部の関心は引き続きイラク軍がサウジアラビアに侵攻するかという点に注目されていた。サウジアラビア はアメリカを含む西側諸国にとって最重要の石油産出国であり、この国の安全が米中央軍の最優先課題に位置付けられており、侵攻3日目の8月4日にはキャン プ・デービットで首脳会議を開いている。この会議では、サウジアラビアへ米軍を展開させる際の問題点の報告を受け、サウジ防衛に必要と考えられる全兵力の 展開には3ヶ月、と試算された。しかし、イラク軍をクウェートから撤退させない限り問題の根本的解決にはならず、そのための兵力が展開するのにかかる時間 は概ね8ヶ月から10ヶ月と試算された。8月5日、ここでブッシュ大統領は、記者団の質問に対しにイラクとの全面対決の道を選んだ事を明言する。
8月7日、ブッシュ大統領はサウジアラビアへの派兵を正式に決定し、これは「砂漠の盾(デザート・シールド)」作戦と命名され。この決定を受けて統合参謀本 部は同日中に、サウジに対する派兵の第一陣として第1戦術戦闘航空団のF15戦闘機48機、RDF(緊急展開軍)である第82空挺師団の1個旅団、2個空 母戦闘群、AWACS部隊に出撃準備を命じた。
地上戦開始直前、サウジアラビアに展開したアメリカ軍の総兵力は、陸上兵力として陸軍約26万人、海兵隊9万人の35万人。航空戦力が作戦用航空機約890 機、海上兵力が空母6隻、戦艦2隻を含む110隻にも及んだ。また、NATOから派遣されたイギリス軍4万人、フランス軍2万人、カナダ国防軍の戦闘機が 30機、イタリア空軍の攻撃機8機が実戦に参加した。他に、主だった所ではサウジアラビア軍約11万人、エジプト軍が約4万人、クウェート亡命政府が約1 万人。これ以外の各国は数千人規模の派遣に留まった。
対するイ ラク軍は、クウェート領内に約25万人、要衝バスラ周辺に約13万人、南部のサウジ国境に約5万人の兵力を展開させており、年明けには新たに増援が送られ 合計で約56万人の兵力で来るべき連合軍を迎え撃つ覚悟であった。そして、国連などでの様々な外交的努力も実らず、1991年1月9日にアメリカ=イラク の採集交渉か決裂し、1月16日には国連安保理決議660号の不履行に基づく制裁が始まるのであった。
湾岸戦争 –周辺各国の動き–
1970年代のアメリカはイラン支持で、イランは有り余るオイルマネーを武器にF-4Eファントム、F-14トムキャットなどの最新兵器を多数購入 していた。しかし、1979年11月に在イランアメリカ大使館で起こった人質事件を境に完全な国交断絶状態にあったため部品の供給が途絶し、新たな供給源 をイスラエルに求めることになる。また、戦争勃発後は長期化して両国が疲弊し共倒れを願うかのように振舞い、イラン優勢時にはイランを、イラク優勢時には イラクを支持するなど実際の行動がそれを示している。ちなみに1982年のレーガン政権時代、イラク戦況不利の情報が伝えられた時、米国は「テロ支援国家 リスト」からイラクを外し、正式に国交を樹立して以後年間10億ドルあまりの援助をしているが、この時の副大統領は後の湾岸戦争時に大統領職についていた ジョージ・W・ブッシュその人であり、国交正常化交渉の特使を務めたのは当時製薬会社社長であり、現国防長官であるラムズフェルドである。当時既に、イラ クがイランに対し化学兵器を使った事が確実視されていたにも関わらず、である。
一方のソ連では、この戦争を脱ソ連の姿勢を見せ始めていたイラクを引き止める好機と捉え、友好協定に基づき武器弾薬をイラクに供与すると共に、地対地戦術ミ サイルである「スカッドB」の射程延伸型である「アル・フセイン」の開発に手を貸している。このミサイルは物理的効果以上に大きな心理的効果をイラン国民 に与え、イランを停戦受諾に追込む大きな要因の一つであった。
1981 年6月7日、イスラエルを飛び立った爆装したF-16戦闘機8機と護衛のF-15戦闘機5機がフランス政府からの援助を受けてイラク国内に建設中であった 原子力発電所を爆撃し、これを完全に破壊した。この原子炉で使用されるウラン235を用いて核兵器の開発を行なう恐れがあったために、過去4度の中東戦争 でイラクと戦ったイスラエルとイランは完成を阻止しようと情報収集に全力を注いでいた。6月11日、イラクのハマディ外相が国連安保理でイスラエルの暴挙 を強く非難したが、イラクの核武装を阻止する事が至上であったイスラエルにとっては国際避難も承知の上での出来事だった。そして1ヵ月後の7月24日に は、イラン国防次官デハガン大佐とイスラエルの在イラン大使館付武官ニムロディ大佐との間で兵器売買の契約がなされ、イランは長期持久戦の大勢を整える事 になる。
周辺各国の恐れた通りイスラム原理主義は広がりを見せ 始め、1979年にキャンプ・デービットでイスラエルとの平和条約を締結したエジプトでも根絶したはずであった、ハッサン・アルパンナによって1928年 に創立された原理主義組織である「ムスリム同胞団」が息を吹き返し、大統領であるサダトのイスラエルとの宥和政策や親族による特権階級的な振舞いに反対す る人々を集め、勢力を拡大していった。そして1981年10月、第四次中東戦争の戦勝を祝う記念式典で暗殺される。実行犯は「ムスリム同胞団」の傍流組織 である「アル・ジャマアート・アル・イスラミヤ」のメンバーで、その背後には原理主義運動の大物ウマル・アブド・アル・ラーマン師の司令があったとも言わ れている。後任には副大統領であったムバラクが任命され、11年にわたるサダト大統領の統治時代は終わりを告げる。
イスラム革命とイラン・イラク戦争<<周辺各国の動き>>クウェ−ト侵攻と砂漠の盾
湾岸戦争 –イスラム革命とイラン・イラク戦争–
1970年代に入り、イラン国内ではシャー・パーレビ王朝に対する不満が高まり、パーレビ国王はSAVAK(国家公安局)と呼ばれる秘密警察を使っ て反政府分子を狩り出す。しかし、激しい弾圧は逆に王室に対する国民の不満を増大させる結果となってしまう。民衆の矛先は次第にパーレビ王朝を支援してい たアメリカへと向けられ、70年代後半になると反王室と反米を掲げた運動がイラン全土に見られるようになる。1978年1月、イランの首都テヘランの南部 にあるイスラム教の聖地コムで、神学生による大規模な反政府デモが発生した。デモ隊と警官隊の衝突により60人あまりの死者を出したこの事件により、イラ ン国内における反王室運動は爆発的な広がりを見せ、各地で反シャー集会が開催されたほか、海外資本の石油施設で働く労働者の間でストライキが敢行された。 このストライキにより国内での石油生産が10分の1にまで低下すると、アメリカ大統領カーターはパーレビ王朝を見捨て、国王に退去勧告をした。そして 1979年1月16日、パーレビ国王はイランを脱出してエジプトへと向かい、54年間続いた王朝は崩壊する。
同年2月1日に亡命先のパリから帰還し、国家主席の座に着いたイスラム教シーア派の宗教指導者であるルホッラー・ムサウィ・ホメイニ師は、「イスラム原理主 義」を標榜し、資本主義や物質主義、快楽主義などの欧米的価値観に侵食されつつあるイスラム法(シャリーア)の復興を目指した。2月11日、シーア派の最 高勲位である「アヤトラ・オズマ」ホメイニはイスラム教の預言者ムハンマドの治世を現代に復活させるべく。イスラムの教えを国政の中心に据えた政権の樹立 を内外に宣言した。
中東の湾岸諸国ではイスラム教シーア派が大きな政治的影響力を持っており、特に国民の65%をシーア派が占めるイラクでは、自国のシーア派が原理主義的な反 政府活動を起こすのを恐れた。イランのフゼベスタン州(イラク呼称アラベスタン)に面するイラクの南部ではシーア派が大多数を占めており、もし彼等がイラ ンと結託して反旗を翻せば、フセイン政権は窮地に追い込まれる事は自明の理であり、また、大規模な産油地である同地方は両国が互いに領有権を主張し、 1975年の「アルジェ合意」で一応の決着は見たものの、国境線についてはわだかまりを抱えたままであった。
以上のような理由でフセインは、「アラベスタン」地方を併合できれば自国のシーア派勢力の力を削ぎ落とせる上に、油田地帯の奪取によって国力の増強に繋がると考え、イランに対する戦争準備を開始する。
1980 年9月22日、イラク空軍の攻撃機がイラン領内の空軍基地を爆撃し、戦争が勃発した。イラクの攻勢は、イラン国内が革命後に行なわれた粛清の後遺症もあっ て順調に推移するかに見えた。初期の混乱から立ち直ったイランは、イラク軍の補給体制の不備、情報判断の甘さもあってイラク軍を押し留めはしたものの戦線 は膠着し、調停者も無く互いに決め手を欠いたまま泥沼化していった。
戦線は何度かの攻守の入れ替わりと共に凄惨なものへと変貌していき、一般市民を狙ったSSMによる都市攻撃や、神経ガスなどの化学兵器までもが使われる。イ ラクはイランからの石油積み出しを妨害するためと大国を調停者として引き込む両方の目的でペルシャ湾を航行するタンカーを無差別に攻撃するようになると、 イランもそれに対抗してイラクからのの原油を運ぶ西側船舶への攻撃を開始し、世に言う「第二次石油危機」で、世界的な原油価格の高騰は戦争が終結するまで 続き世界経済に大きな打撃を与えた。1987年5月、バーレーン沖で警戒中の米フリゲート艦「スターク」がイラク空軍の保有するミラージュF1戦闘機に誤 射され、AM-39“エグゾセ”ASM2発が命中し37名の死者を出す事件が起こると、同年7月20日、国連安保理は「イラン・イラク戦争の即時停戦を求 める国連決議」を採択し、国連事務総長による調停活動が開始された。しかしその後も戦闘は続き、結局1年後の1988年7月18日にやっとイランが国連停 戦決議を受け入れ、8年にも及んだ泥沼の消耗戦は互いに得る物もなくようやく集結するのである。
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