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Korea War(6) −休戦条約 −

2月 4, 2009 by editonal  
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休戦条約


国連安保理でソ連代表マリクが行なった休戦提案を契機と して、1951年7月10日から開城で朝鮮軍事会談が開かれた。国連側の首席代表はジョイ極東海軍司令官で、他に第8軍参謀副総長ホッジス少将、極東空軍 副司令官クレイギー少将、極東海軍参謀副長パーク少将、韓国側の代表は第1軍団長白善少将であった。

一方の中国・北朝鮮側の首席代表は北朝鮮軍総参謀長の南日中将、北朝鮮代表は李相朝少将と張平山少将。中国代表は副指令の據∪・0儖・硫鯤・任△辰拭」

国連側は、1ヶ月もあれば交渉は妥結するであろうと予想していたが、何を会談の議題とするかという問題についてさえ紛糾し、7月26日になってようやく纏ま るなど、会議は難航に難航を重ねた。その交渉の進展に応じて前線での作戦も展開された。こうして、双方にとって決して損害が少なくない陣地線と、いつ終わ るとも知れない交渉が延々と続くことになってしまう。

会談が始まった頃の国連軍は、圧迫の継続によって交渉を有利に進めるために東部戦線で攻勢を開始したが、豪雨により一時延期せざるを得なかった。8月になっ て東部戦線での攻勢を開始したが、6月中旬以来防備を固めていた中朝軍の陣地は固く、数kmを進撃するために多くの損害を被った。限定目標の攻撃では埒が あかないと見た第8軍司令官ヴァンフリート大将は、東海岸で着上陸作戦を行なって北朝鮮軍を撃破しようとしたが、ワシントンの以降に忠実な国連軍司令官 リッジウェイ大将はこれを許可しなかった。そして、この間も会議は中断したままであった。

国連軍は、中朝軍を交渉のテーブルに着かせるために10月初旬、全線に渉って攻勢を開始した。その主な狙いは、戦線の弱点を修正して有利な要線を確保しよう というものであったが、中朝軍の激烈な抵抗に遭い、10月中旬には予定していた線に概ね進出したものの、獲得した地域に比べて払った犠牲は大きかった。だ がこの攻勢は中朝軍に変化をもたらし、国連軍の圧迫に耐えかねたのか時間を稼ぐためかは定かではないが、中国・北朝鮮は国連軍が求めていた交渉の再開に同 意し、10月25日、軍事会談は板門店に場所を移して再開された。そして紆余曲折を経た後10月27日、「現在の接触線を基本とする」という国連側の主張 に沿う形での軍事境界線問題が妥結を見るに至った。

第8軍は再 三にわたって大規模な軍事作戦の計画を具申したが、リッジウェイ大将はその都度これを拒否する。ここに至り第8軍は11月12日、「The Active Defence」という新たな方針を指令した。その要旨は「減戦線を大幅に変更しない範囲において最も防御に適する地形の確保に努め、攻撃は1個師団以下 の兵力で奪取し得る前地の攻撃に限定する。但し好機に応じて攻撃を採り得るよう準備しておく。」というものであり、完全な陣地戦への以降であった。

一方の中朝軍も、会談期間中を利用して現占領地域に大規模な築城を行い、軍事境界線問題の決着を契機として全面的な陣地防御に転じたようであった。全戦線の縦深20〜30kmにわたって塹壕を巡らし、西海岸から東海岸まで220kmに及ぶ巨大な洞窟陣地を築き上げた。

1951 年冬から1952年春までの間、両軍は越冬の状態で過ごしたが、偵察や警戒行動派昼夜の別なく行なわれ、死傷者が1人も出ない日は1日としてなかった。両 軍とも対峙したままで、大規模な作戦行動はとらなかったが、第一線地域では、最も防御に適する地形の確保を巡り両軍による高地争奪戦が繰り広げられてい た。

朝 鮮戦争では、前線での正規軍同士の戦いとは他に、国連軍の後方地域では中朝の非正規軍(ゲリラ)との戦いが同時に行なわれていた。既に1950年秋に国連 軍が北進していた時に、米第9軍団を以ってゲリラの掃討に任じており、韓国第3軍が送検されるとその任務を継承していた。1951年の春過ぎになってゲリ ラの活動がやや下火になると、国連軍はしべ手の師団を第1線に招聘し、後方には韓国の警備大隊10個を配置して治安の維持に当たらせていた。ところが、休 戦会談が始まり国連軍の攻勢が開始されると、ゲリラの活動は再び活発化し、1051年9月末頃より襲撃や略奪を繰り返した。彼らは迫撃砲などで武装してお り、その数は約2万名と推測され、最早警備大隊程度では手に負えるものではなかった。そこで、韓国軍の中で優れた戦績を残している白善少将にゲリラの掃 討を命じ、白少将は首都師団と第8師団を以って白野戦戦闘部隊を組織してこの任務に当たった。

白少将は、ゲリラの篭る智異山外周30kmを包囲して外部との接触を遮断し、12月2日に攻撃を開始し、12日間の戦闘で約3,500人のゲリラを掃討し た。だが、広大な包囲網を突破して逃げるゲリラも多く、白少将は直ちに追撃して智異山北方と西方で捕捉し、掃討する。さらに再び智異山に逃れたゲリラを包 囲してこれを撃滅し、1月末に作戦が終了した時までには、最終的に19,000人のゲリラを殲滅する事に成功する。こうしたゲリラの根絶によって国連軍の 後方は安定し、作戦は容易になっていった。中朝軍は、1951年冬から翌年春にかけて兵力を増強し、52年春には86万7千人(中国軍64万2千人、北朝 鮮軍22万5千人)に達し、国連軍の60万人を凌駕して、しかも次第にその差を大きくしていった。中でも国連軍が最も脅威に感じたのは中国空軍の増勢で あった。1951年7月には500機程度であった作戦用航空機は1952年4月には1200機以上に増え、そのうち800機以上がソ連製のジェット機であ り、中国空軍が積極的な攻勢をかけることは無かったが、国連軍は座視しがたい存在であった。

地 上での戦闘が手詰まりになると、交渉促進のため空軍力が注目されるようになる。だが、中朝軍が地下の洞穴陣地に潜ると陣地破壊の効果は薄れ、阻止作戦に自 然と期待が集まった。国連空軍はこれに答えて鉄道などの北朝鮮軍の補給線に対して集中的に爆撃を行なったが、北朝鮮軍は高射砲によって鉄道を援護し、トン ネル内へ列車を非難させて土嚢により入り口を閉鎖し、人海戦術によって破損個所の応急復旧を行なうなどして補給を継続し、そのため、絶対的な阻止には至ら なかった。また、海軍艦艇は艦砲射撃によって、東海岸の鉄道、港湾施設の破壊韓国第1軍団への支援を続けたが、これも交渉の行き詰まりを打開するまでには 至らなかった。国連軍は、陸海空のすべてにおいて決定的な力を失い、そして同様に中朝軍にも決定打はなかった。

09_16軍事会談は、1951年11月27日に軍事境界線問題が妥結した後も、停戦と休戦の実行、捕虜問題で紛糾が続いていた。これら議題の行き詰まりが明らかにな ると1952年2月、中国・北朝鮮側は突然「米国の細菌戦」の話を持ち出して激しい非難を浴びせた。さらに2月18日、巨済島の国連軍捕虜収容所で、共産 主義に占拠された区画への立ち入りを巡って双方に死傷者が発生する。さらに5月7日には捕虜収容所の所長が捕虜に監禁されるという前代未聞の事件が起き、 所長の解放と引き換えに捕虜の主張を認める文書が送付され、この事は中国・北朝鮮側の格好の宣伝材料となった。加えてこの時期、国連軍による中立地帯侵犯 事件なども起こり、国連側は政治的にも守勢を余儀なくされた。このような困難が続く5月12日、国連軍総司令官リッジウェイ大将が転出し、後任にはクラー ク大将が任ぜられた。だが国連軍は有効な手段を見出す事も出来ずに中国・北朝鮮側の政治攻勢は続いた。交渉はこの頃、捕虜の送還問題という一点に絞られて いた。つまり中国や北朝鮮に帰りたくないという捕虜約5万人の扱いについて、中国・北朝鮮側は強制送還を主張し、国連側は任意送還を主張するという対立で あったが、双方の主張の隔たりは大きく、国家の面子、イデオロギーから世界観の違いにまで発展し、双方とも引くに引けない立場に追い込まれた。こうして交 渉は行き詰まり、再び無期限の休会に入った。そのため、この5万人の捕虜の扱いを巡ってさらに1年間も戦いが続くことになり、国連軍側だけでも10万人以 上の死傷者が発生した。

この間も前線では小規模な戦闘が続いて いた。中朝軍は1952年9月18日から中国軍7個軍、北朝鮮軍2個軍をもって比較的大規模な攻勢を行なったが、それも高地の争奪戦の域を出なかった。国 連軍はこれに対して反撃を再開すると共に、泗川江、不毛高地、首都高地、狙撃稜線、クリスマス高地、月比山などで激しい戦闘が繰り広げられた。こうして前 線では戦闘が繰り返されつつ、交渉は中断したまま3度目の冬が半島に訪れることになった。

1953 年1月、米国大統領に就任したドワイド・D・アイゼンハワーは交渉の再開に務めたが、中国・北朝鮮側の主張する捕虜の強制送還の原則を変えることは出来な かった。ところが、3月になってソ連のスターリン首相が急死すると、中国・北朝鮮側に軟化の兆しが現れ4月26日、6ヵ月半ぶりに休戦交渉が再開された。 まず、傷病捕虜の交換が成立し、全面休戦の機運がにわかに高まると、中朝軍の矢継ぎ早の攻勢が始まる。最後の攻勢で、中朝軍勝利の印象を与えて交渉を有利 に進めようという意図は明らかであった。

中朝軍は、5月13日 から26日の間、4個軍を以って金城突出部に攻撃(第1次)を行なった。引き続き5月27日から6月23日の間、新たに3個軍を加えて7個軍とし、主とし て太白山脈地域で攻勢(第2次)を加えた。そしていよいよ休戦が近づいた7月13日、中国軍9個、北朝鮮軍の大群が全面攻勢をかけた。特に中部の金城で は、中国軍5個軍16個師団による最後の攻勢(第3次)が行なわれたが、国連軍は迅速な増援と補給によって辛うじてこれを食い止めた。

元 々韓国にとって休戦交渉は好ましいものではなく、国土を蹂躙された上での勝利亡き休戦は、莫大な損害を被っただけで開戦前の状態に戻るだけであり、このた め休戦反対のデモがしばしば起こった。しかもこの休戦は、韓国の預かり知らぬところで米国が勝手に決めたものである。中朝軍の第2次攻勢が続いていた6月 6日、揉めに揉めていた捕虜送還問題が妥結すると、李承晩大統領は最後の抵抗として韓国軍が警備していた捕虜収容所から2万5千人の反共産主義捕虜を勝手 に釈放する。始めは激怒した米国であったが、米国務省は極東担当次官補バートンを韓国に特使として派遣し、18日に及ぶ協議の末に米韓安全保障条約の締 結、韓国軍20個師団の増設、戦後復興の援助などを与える代りに休戦に反対しない事を約束させた。早く戦争から抜け出したい米国と、戦後の安全保障を考え た韓国との高次元の取引であった。

こうして全ての条件が整った 1953年7月27日午前10時、板門店でついに休戦協定が締結された。国連軍首席代表ハリソンと北朝鮮軍首席代表南日は、休戦会談の本会議場で協定にそ れぞれ調印した。しかし、お互いに顔も見ず、握手もせず退席するという異様な調印式であった。また国連軍総司令官クラーク、北朝鮮軍総司令官金日成、坑美 救援軍総司令彭徳懐は、それぞれ後方の司令部で署名した。だが、この休戦協定に韓国代表の署名は無かった。李承晩大統領が、反対しないがサインはするなと 命じていたと言われている。

この日の夜10時、休戦協定が効力を発生し、全戦線で銃声がやんだ。北朝鮮軍の奇襲攻撃で戦争が勃発してから3年1ヶ月と66時間振りに訪れた静寂であった。

■参考文献

歴史群像シリーズ60「朝鮮戦争(上)」 秋田書店
歴史群像シリーズ61「朝鮮戦争(下)」 秋田書店
朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀― 荻原遼 文春文庫
世界の傑作機 No,10「グラマンF9Fパンサー/クーガー」  文林堂
世界の傑作機 No,20「ノースアメリカンF-86セイバー」 文林堂
世界の傑作機 No,84「F80/T-33シューティングスター」 文林堂
世界の傑作機 No,88「ヴォートF4Uコルセア」 文林堂
世界の傑作機 No,90「F84サンダージェット/サンダーストリーク」 文林堂
世界の傑作機 No,97「MiG-15“ファゴット”MiG-17“フレスコ”」 文林堂

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一進一退<<休戦条約>>ライブラリーインデックス

Korea War(5) −一進一退 −

2月 4, 2009 by editonal  
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一進一退


1月13日、西欧諸国は朝鮮戦争の即時停戦を国連に提議 した。これは、休戦している間に朝鮮問題の解決策を探ろうというもので、朝鮮から外国軍隊を撤退させ、台湾問題と中国の国連代表の討議機構を設定するとい う内容であって、これは、米国の政治的敗北に他ならなかが、米国はこれに賛成票を投じた。中国との軍事的敗北に自信を失っていたのである。

軍事的優勢を確信した中国は、1月17日に回答を寄越すもその内容は休戦には同意するものの、中国の国連加盟を即時認可せよという米国が到底受け入れるもの ではなく、この回答を中国側の完全拒否と解釈した米国は、中国を侵略者として議決するよう迫った。他の諸国の間にはなおも北京との交渉を進めようとする動 きもあったが、1月下旬、ついに総会において「中国は侵略者である」との議決がなされた。そして、米国は当初の戦争目的である侵略者を韓国から叩き出すと いう目的と自信を取り戻したのである。

koreanwar37度線付近に後退した 国連軍は、西から米第1軍(米第3、第25師団、韓国第1師団、英第29旅団)、米第9軍(米第24師団、韓国第6師団、英第27旅団)、米第10軍(米 第2、第7師団、韓国第2、第5、第8師団)、韓国第3軍(第7、第9師団)、韓国第1軍(首都師団)を第一線として布陣し、後方に米第1騎兵師団を配 置、そして米第1海兵師団と韓国第11師団が太白山脈付近でのゲリラ掃討任務に就いていた。だが、続く敗退と雲霞のように押し寄せる中国・北朝鮮軍に対し ての恐怖心から士気は極度に低下しており、彼らを神秘的な存在見るようになっていた。

ま た、中国軍は以前と同様に前線から姿を消しており、そこでリッジウェイ中将は米第1、第9軍の一部を持って威力偵察を命じた。両部隊は一部の部隊を北上さ せたが、警戒部隊らしい小部隊に遭遇しただけでそこで第8軍は、1月25日からソウル南側正面において2個師団と1個旅団をもって北上を命じ、これを「サ ンダーボルト作戦」と命じた。中国軍の抵抗は極めて微弱で26日には水原〜利川の線に進出した。

リッ ジウェイ中将は第一線部隊を増加して5個師団を並進させ、当初の威力偵察は大規模な構成に発展していった。しかし、1月末になると抵抗が増し始める。中国 軍は漢江南岸に6個師団を配して防御体制をとっていたのである。第8軍は10日間の激戦の末にこれを撃退し、2月10日には漢江の線をほぼ快腹した。この 間、中部山岳地帯正面の米第10軍も1月31日から威力偵察を開始し、2月5日には部隊を増強して大規模な構成に発展した。これを「ラウンドアップ作戦」 という。当初北朝鮮軍の抵抗を受ける事はほとんどなかったが、洪川付近で強力な抵抗に遭い、北進は停滞した。

2月11日、中国・北朝鮮軍は14個師団を集中して攻勢に転じた。また中国第39軍が砥平里の米第23連隊を包囲し、さらに水原に中国軍第38軍が進出して きた。横城北側の韓国軍3個師団は中朝軍の10個師団に突破され、多くの損害を受ける。また太白山脈沿いの韓国第3軍団は背後から挟撃され、大混乱に陥っ た。積雪寒冷地帯での激戦は続き、中国軍の人海戦術に対し国連軍は圧倒的な火力と航空支援で応じた。一時は危機的状況に追込まれた米第10軍であったが、 中朝軍は攻勢開始から一週間くらいすると次第に衰え始めた。補給、衣料品の不足などから中朝軍は莫大な損害を出して力尽きる。国連軍にとって、中朝軍の攻 勢を撃退したという意味は大きく、国連軍はこれで自信を取り戻す結果となった。

第8軍はこれに乗じて全戦線に渡って攻勢に転じ、漢江〜砥平里〜横城〜江陵に進出、次の本格的な作戦の準備を始める。各部隊は2月20日に北進を開始した。 中朝軍の抵抗は凄まじく、しかも折からの豪雨は洪水を呼び、到る所で補給線が寸断され辺りは一面の泥濘と化してしまった。第8軍は中朝軍に加え自然とも戦 いながら2月末に目標線に到達する。

だがリッジウェイ中将はこ の成果を不十分と考え、引き続く中朝軍を圧迫するために新たな攻勢の準備の指令した。この攻勢の目的はソウル包囲網を築き、奪回を図るというもので3月7 日、米第8、第9、第10と韓国第1、第3軍が北進を開始する。中朝軍は小部隊ごとに遅滞戦術を繰り返し、進撃は遅々としたものであったが、それでも着実 に前進を続けていった。

西部の米第1軍団は、韓国第1師団、米 第3師団でソウル南側から牽制しつつ、米第25師団をソウル東側から渡河させてソウルの包囲を企図した、25師団は順調に前進を続けて11日にはソウル〜 春川沿線に到達した。捕虜の言質によるとソウルには中朝軍はほとんどおらず、8日には撤退を始めた事が解ると韓国第1師団長白善はミルバーン軍団長にソ ウル奪還を具申し、了承を取り付けた後に3月15日に渡河を開始するとその日のうちにソウルを奪還した。これに勢いを得た第8軍は順調に前進を続け、3月 末にはソウル〜春川〜38度線を繋ぐ通称「アイダホ・ライン」を確保した。

マッ カーサーとワシントンは戦争方針について衝突を繰り返し、戦争を半島地域に限定しその中で政治的解決を図ろうとする米国政府の方針に対し、マッカーサーの 行動は独善的であると思わるようになった。また、マッカーサーも軍事的勝利こそが事体の収拾を図り、これに様々な制限を加える政府首脳部に根強い不信感が あった。トルーマンは、「38度線を回復した以上これ以上の北進は様々な危険を生じ、目下の政策は中国に軍事的冒険を断念させて交渉の椅子に付かせること である。」と休戦を呼びかける大統領声明を発表した。ところがマッカーサーは、ワシントンとの事前協議無しに「国連軍に課している制限事項をてをたっぱい 中国を軍事的崩壊させる。」というもので、用意していた大統領声明では全く逆の威嚇的なものであった。マッカーサーは彼の北進計画に基づいて、38度線か ら概ね20km前進させる「ラギッド作戦を命じ、4月9日指令を出す。ここに至って、トルーマンはマッカーサーの解任を決め、2日後の11日、マッカー サーは国連軍総司令官を解任された。後任には、第8軍司令官のリッジウェイ中将が任命され、その後任にはヴァンフリート中将が任命される。

korean_war_artillery第8軍は中朝軍の春季攻勢を予想しながらも順調に進撃を続け、21日には臨津江〜鉄源〜金化〜金城南側〜束草を結ぶ「ワイオミング・ライン」を目指してい た。ところが翌22日夜、中朝軍は4時間に及ぶ攻撃準備射撃に続き、全戦線で攻勢を開始した。予想通り春季攻勢が始まったのである。この攻勢は、今までの ように議政府からソウルを目指すものとは異なっており、国連軍の機甲戦力と火力を避けて山岳戦に持ち込み、一気に決着をつけようとしている事は明らかで あった。在朝鮮軍70万人の約半数を突進兵力として使用する、中朝軍の総力戦であった。だが、攻撃要領は以前と何ら変わる事はなく、機甲戦力や砲火力もほ とんど無い状態であり、夜になるとラッパやドラを掻き鳴らして歩兵の突撃を繰り返し、夜が明けると斜面の後方に引き返して国連軍の砲爆撃を回避する、その 繰り返しであった。

国連軍は甚大な損害を敵に与えつつ逐次後退 し、4月末にはソウル北側〜清平南側〜洪川北側〜襄陽北側の「ノーネーム・ライン」に至るが、中朝軍の攻勢はここで限界に達した。第8軍は、中朝軍に休息 の暇を与えないよう直ちに反撃に転じ、5月始めには先の攻勢で失った土地の半分を回復する。ヴァンフリート中将は再び構成を計画し始めた。

と ころが5月10日頃になると、北進した偵察部隊は激しい抵抗を受けるようになる。しかも、中朝軍の大舞台が当方に移動しつつあり、大攻勢を予感したヴァン フリート中将は、陣地防御によってこれを粉砕し、国連軍は撤退しないという決意を実力で示す決心をした。これは、中朝軍に軍事的勝利を断念させて交渉の機 会を得ようとするワシントンの意向にも沿ったものであった。

5月15日夜、中朝軍はその一部をもって東西の正面を牽制し、北朝鮮3個軍団、中国軍7個軍団の総計30個師団を以って「5月攻勢」を開始し太白川山脈沿い の韓国軍第3軍を攻撃した。第3軍は後方を遮断されて崩壊した。そのため左右両翼の戦線も後退せざるを得なくなっってしまった。ヴァンフリート中将はソウ ルにいた米第3師団を急派し、東海岸にいた韓国第1軍団と共に反撃をするよう命じ、両部隊は19日から20日にかけて逐次戦闘に参加して中朝軍のこれ以上 の進出を阻止し、やがて反撃に転じた。この頃になると中朝軍の攻勢は目に見えて衰え始め、第8軍は攻勢に転じて5月末には失った戦線を回復した。第8軍は 更なる進出を決めて「パイル・ドライバー作戦」を発動し、6月中旬には目標とされた線への進出を終えた。

中朝軍はこれまでの戦闘に加え、「5月攻勢」で失った人的損失は膨大なものとなり、軍事的勝利によって戦争目的を達する事はもはや不可能という考えが広まっ ていく。加えて、米国との全面対決を恐れたソ連が交渉のテーブルに着く事を勧めだした。6月23日、ソ連代表マリクが国連安保理で休戦の提案を行い、中国 も人民日報を通じてこれに同意する。

一方の米国はすでに5月 16日の国家安全保障会議上において、米国の面目を潰さない形で休戦を実現するという決定を行なっていた。この決定は、「38度線に概ね沿う線で休戦する ことは、国連の目的を達する事になる。」という声明によって国連諸国の賛同が得られており、マリクの提案はまさに渡りに船であった。ワシントンはマリクの 提案がソ連の公式見解であるという確認をとった後、リッジウェイに停止命令を出した。リッジウェイはワシントンの訓令に基づき、6月30日、金日成と彭徳 懐を宛てて休戦交渉を提案し、これが同意されて戦闘は一応の終わりを見せた。

しかし、この休戦によって終わりを告げたわけではなく、この先まだまだ多くの血を吸いつづけていく。

中国軍参戦<<一進一退>>休戦条約

Korea War(4) −中国軍参戦 −

2月 4, 2009 by editonal  
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中国軍参戦


1950年10月18日、彭徳懐が指揮する中国人民解 放軍坑美援朝軍の先遣部隊は、中国・北朝鮮国境を流れる鴨緑江を渡って北朝鮮領内に入った。その後も続々と部隊が南下するが、中国軍は擬装を徹底して行 い、行軍を夜間に限定したために国連空軍はその兆候を発見できずにいた。

も ともと中国首脳部の考えとしては朝鮮戦争に対し明確な方針や構想があったわけではなく、朝鮮内部の問題と考えていたが、6月27日に米海空軍が投入される と危機感を抱き始め、朝鮮、台湾、ヴェトナムの三方からの脅威を現実の者として認識しだした。そこで東北辺防軍を編成して東北部の防備を固めると共に、状 況に応じて朝鮮に出兵するものとし、米軍の包囲殲滅を構想していた。ところが、仁川上陸作戦と米軍の近代戦力見せ付けられた中国軍は短期での決戦は不可能 と判断し、その後も構想が二転三転し、結局持久作戦へと方針を転換する。

rodadblocktobecleared110月1日、金日成から救援の要請が届き、韓国軍が38度線を越えて北進を始めると参戦を決めるが、進撃しているのが韓国軍のみとわかると介入の是非ついての 審議が持たれたが、結局介入する事に落ち着いた。10月7日に国連決議において北朝鮮領内への進撃が決定すると周恩来はモスクワに飛んで中国の参戦を告 げ、ソ連空軍の参戦を求めたが米国との直接対決を望まないソ連はこれを拒否する。このソ連の反応に毛沢東は戸惑い、再び介入について議論される。その結 果、中国はソ連空軍の援護がなくても参戦することを決め、10月18日夕刻、18個師団が鴨緑江を渡河した。

10月25日、中国軍は雲山、温井、熙川正面で攻勢を開始した。北朝鮮軍を追撃中の国連軍は各地で激しい抵抗に遭遇し、やがて中部山岳正面から右側背(東側) を包囲されていった。だが米8軍は当初、その実態を掴むことができずにいた。中国軍が徹底した秘匿と、中国軍の介入などありえないという先入観が判断を迷 わせたのである。後にこれが悲劇的な結果をもたらす事になる。

10月26日、韓国第7連隊は最後の進撃を続け、楚山南側で一個連隊規模の北朝鮮敗残部隊を撃破し、楚山を占領する。さらに6kmほど前進してついに鴨緑江へ 到達した。これで戦争が終わると考えていた将兵達の後方70kmにある温井では、韓国第2連隊が中国軍に撃破され韓国第2軍団はその対応に苦慮している所 であった。翌27日には後退命令が出されたが、中国軍の真中に取り残された第7連隊は苦難の後退戦を続けることになってしまう。東海岸では10月26日なってようやく第10軍第1海兵師団の上陸が始まる。また米第7師団は、10月29日から利原に上陸を始め、二手に分かれて豆満江と鴨緑江へと進撃を始めた。

11月1日、第8軍は中国軍の参戦を公式に認め、清川江への後退と防勢へ転移を命じた。各部隊は後退をはじめたが米第1騎兵師団第8連隊旗色を遮断されて 1個大隊が壊滅する。西方で後退に転じた第8軍は、激しい戦闘を行ないつつ清川江の線まで後退したが、11月5日になると中国軍の攻勢が止む。これは、中 国軍の戦術が瞬間的な打撃によって国連軍の北上を阻止し、主力が到着するまでの時間を稼ぐ方針だったためであり、中国軍は戦線の後方で反撃拠点を作り、次 の本格的な攻勢の準備に取り掛かっていた。

マッカーサー元帥は、中国軍の侵入と補給を阻止するために鴨緑江に架かっている橋の爆撃を企図していた。これはワシントンの反対にあって一旦は中止されたが、 マッカーサー元帥の強い抗議に合って11月6日に許可され、8日に爆撃が開始された。この時、朝鮮上空に中国空軍のMiG-15現れ、それまでは敵など存 在しなかった米空軍のF-80、F-84、米海軍のF9Fなどの直線翼ジェット戦闘機を一瞬で旧式化してしまう。慌てた米空軍は、アメリカ本土でも配備が 始まったばかりのF-86Aを呼び寄せ、朝鮮半島北東部、通称「MiG街道」で休戦の日までジェット戦闘機同士の空中戦が連日繰り広げられる。

中国軍の参戦後も、国連軍はその兵力を過少に見積もり、東海岸に上陸した第10軍団は11月24日、再び鴨緑江へ向かう新たな攻勢を開始する。ところが翌 25日、集結を終えて36個師団となった中国軍が攻勢を開始し、第8軍の右翼に展開していた韓国第2軍団を撃破する。国連軍は優勢な火力を以ってこれを粉 砕しようとするが、中国軍の圧倒的な人海戦術によって次々に陣地は崩壊し、もはや戦線の維持は不可能になってしまう。

12月29日、後退した国連軍は平壌で防衛線を張り、中国軍の攻勢を阻止しようとするが、この線の中央部にある成川が奪取され、この突破口から大軍が雪崩れ込ん で来るに及び、マッカーサー元帥は38度線への総退却を命じる。こうして先頭は主役を変えて新たな局面に向かうことになる。

war12月5日、国連軍は平壌を徹底的に破壊して後退を始めた。中国軍の追撃はなく離脱は成功するかに見えた。しかし、中部の山岳地帯を進攻する中国軍の進撃速度 は予想外に早く、約300万人の北朝鮮住民が難民となって付き従っていた国連軍は常に側背の恐怖を感じながらの撤退となった。それでも12月15日には 38度線以南への撤退を完了して困難な後退戦は終わりを告げ第8軍は危機的状況を脱することができた。一方の第10軍も12月10日から海路による撤退を 始め、24日には全軍が釜山付近の港へと向かっていた。この撤退には船舶193隻を使用して将兵、避難民合わせて約20万の人員を南へと移送した。

12月23日、このようなくらい状況の中で第8軍司令ウォーカー中将が自動車事故で殉職し、後任には参謀次長のリッジウェイ中将が任命されるという事件が起こった。

その頃ワシントンでは、中国軍の介入は限定されたものであり、38度線で停止するのではないかという希望的観測があった。そして米国も戦場を朝鮮半島で限定 し、原爆も使用せずに自ら制限した枠の中で国連や韓国への信義を貫こうと模索していた。一方のマッカーサーは、海・空軍を使用して中国全土を攻撃する事を 主張し、ワシントンとの間で激しい議論が続いていた。また中国は軍事作戦の成功に自信を深め、前線の部隊が補給の限界と急速の必要を訴えているのを無視し て38度線を越えて進撃することを強く要求した。売国も中国も、前線指揮官と首脳部に意識の乖離が見られていたのである。

第8軍は38度線に沿って薄い防衛線を張っていた。中国軍の停止は兵站上の理由によるもので、介入の目的を果たした中国軍が交渉に応じて平和が訪れるのでは ないかという国連軍が抱いていた希望は12月31日に始まった中国軍の攻勢によって木っ端微塵に打ち砕かれてしまう。このときも中国軍は人海戦術によって 国連軍を次々と撃破、また再度突破された中部山岳地帯からも大群が押し寄せ12月3日、国連軍は再び後退を開始し4日にはソウルを放棄、突破正面への部隊 の投入と反撃を繰り返しながら平沢〜丹陽〜三陟の線(37度戦)で辛うじて踏みとどまった。そしてこの時も、中国軍の攻勢は1月15日には突然に止んだ。

仁川上陸作戦<<中国軍参戦>>一進一退

Korea War(3) −仁川上陸作戦 −

2月 4, 2009 by editonal  
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仁川上陸作戦


マッカーサー元帥は、地上軍を韓国に投入した時から 北朝鮮軍を何処かで阻止した後、新たな部隊を半島中部〜北部に上陸させて後方を遮断し、北朝鮮軍を殲滅する構想を抱いていた。釜山橋頭堡での攻防が続いて いる8月12日、マッカーサー元帥は数ある候補地の中から仁川への上陸作戦を決め、「クロマイト100-B号計画」を策定した。そして15日には、第1海 兵師団、第7師団、韓国軍の一部を以って第10軍団を編成して上陸部隊に指定、軍団長には国連軍参謀長のアーモンド少将を兼任させた。 ワシントン首脳部は上陸作戦そのものには賛成したものの、上陸地点については仁川の自然条件などを理由に難色を示したが、マッカーサーは自説を撤回しよう とはせず、8月28日には作戦を承認した。同30日、マッカーサーは作戦命令を下達し、9月6日には上陸作戦決行日を9月16日と決めた。

第10軍は海上輸送から海岸堡の確保までは国連海軍の指揮下に入るため、新たに第7統合任務部隊を編成し、指揮官には第7艦隊指令ストラブル中将が任命され た。同部隊は上陸に際し近接航空支援と艦砲射撃を以って上陸部隊を援護する任務が与えられ、米、英、仏、カナダなどを含む総計260隻の艦艇で構成され、 LSTの乗員や周辺海域の掃海作業には多くの日本人船員が動員されていた。この頃の北朝鮮軍は、ほとんど全ての戦力を洛東江戦線に投入しており、ソウルを はじめとする後方地域にはわずかに警備部隊などが駐留していただけであったが、仁川、ソウル地区への国連軍の上陸作戦があるものとの判断から、新たに西海 岸防御司令部を編成し、付近に散在していた部隊の統一指揮をさせることとし、仁川〜ソウル地域の北朝鮮軍は9月4日までに約1万名にまで増員されていた。

9月15日午前5時、国連軍は最初の上陸地点である月尾島に艦砲射撃を開始し、6時31分には第1波の第5海兵連隊第3大隊が上陸を開始する。島内の抵抗は 散発的で午前7時50分には掃討を完了する。午後5時33分にはこの日2回目の満潮に合わせて主力部隊が上陸し、抵抗を排除しつつ真夜中には仁川の北部と 南部で目標線に到達する。翌16日夕刻には仁川から10キロの円状に指定された海岸を確保し翌朝からの進撃の準備に入る。この間、仁川防衛の任務につく北 朝鮮軍兵士の大部分が逃亡していた。

macarthur-garage第1海兵師団が仁川に上陸すると、北朝鮮軍は南方と北方からこの地域への兵力の投入をはじめたが、国連空軍によって多くの被害を受け、ソウル付近に集結でき たのは新編あるいは近くの部隊だけであった。海兵第5連隊は17日は戦車6両をと歩兵1個大隊で反撃を開始したがこれを撃破し、同日夜に金浦飛行場に進出 する。18日には飛行場を完全に占拠し、19日には漢江の堤防に進出した。もう一方の第1海兵連隊は北朝鮮軍の激しい抵抗に合い、19日になってようやく 永登浦に進出したが、同地を完全に占拠したのは22日になってからであった。9月20日、第5海兵連隊は白昼に漢江を強襲渡河し、翌日からソウルに向けて 進撃した。北朝鮮軍の抵抗は市内に近づくにつれて激しくなっていき、損害を出しつつも25日朝にはソウル西側の高地帯を占領する。第1海兵連隊は汝矣島か ら漢江を渡河して第5海兵連隊を支援し、韓国第32連隊はソウル南東の西氷庫付近で漢江を渡河して南山を占領した。3方を包囲された北朝鮮軍は主力を北方 に撤退させるため残置部隊で時間稼ぎを行い、ソウルの掃討完了は28日の事となる。

第1海兵師団を追って上陸を果たした第7師団は、21日に安養を占領して南方からの増援を断ち、22日朝には水浦飛行場を占拠した。24日には北朝鮮軍の激しい反撃を受けるもこれを撃退、北朝鮮軍の抵抗を排除しつつ進撃して28日には鳥山北方の高地を奪取する。

第 10軍の仁川上陸に呼応し、9月16日より第8軍も洛東江戦線からの攻勢に転じる。反攻当初は北朝鮮軍の抵抗に合い膠着していたものの、18日に韓国第1 師団が多富洞北方で北朝鮮軍の間隙を突き、その後方に進出して退路を遮断、翌19日には北朝鮮軍を逆包囲する構えを見せると頑強に抵抗していた北朝鮮軍も 遂に崩壊し、第10軍は各方面で北朝鮮軍の戦線を突破する。

22 日、ウォーカー中将は全軍に突撃を命じ、第10軍との堤携を図り、北朝鮮軍の捕捉撃滅して38度線への進出を指令した。既に限界に達していた北朝鮮軍は、 抵抗する余力もなくあちこちで壊走を重ねた。国連軍は散発的な抵抗を排除しつつ全線で快調な前進を続け、9月の終わりには失地を全て回復したが、政治的判 断により38度線の突破にはいささか躊躇していた。

006723 日には38度線以北への総退却令が出されたものの、車輌の多くを失い機動力に劣る北朝鮮軍は、京釜道を驀進する国連軍部隊に追い抜かれ一部がゲリラ化した ものの、占領下で強制的に徴募した兵士ののみならず政治委員までもが軍服を脱ぎ捨て逃亡するという有様であった。国連軍の推定によると、洛東江に展開して いた10万の兵士のうち死傷者1万、捕虜1万、ゲリラ化した兵1万〜2万、無事撤退した兵2万5千〜3万で、残りは逃亡したものと見られている。部隊が 38度線に到達した時、米首脳部とマッカーサーはこれ以上北に向かって進撃するかどうかという政治的判断に迫られていた。北朝鮮軍の撃滅を意図する軍の考 えではここで進撃をストップすると言う事は不可能であり、またこのことは38度線を恒久的な国境線とする事も意味していた。しかし、これ以上進撃を続ける とソ連や中国の直接介入も招きかねない恐れもあり、結局トルーマン大統領は、38度線以北の進撃は認めるものの、それはソ連や中国の介入がない場合に限る と言う中途半端なものになってしまう。マッカーサーは折衷案に近いながらも承認されたと判断し、9月27日に作戦構想に入り、本国との協議の結果29日に は全軍の38度線突破を命じた。この日、半島東海岸では韓国軍第3師団が38度線に到達していた。

韓 国軍の立場としては、北朝鮮が先に攻撃を仕掛けた以上すでに38度線の存在は無実化しており、この際国連軍と共に彼岸である祖国統一を果たそうという考え であり、韓国軍の一部が38度線に到達した翌日の9月30日、李承晩大統領は参謀総長である丁一権に対し独断での突破を命じた。丁参謀総長は熟慮の末、や むを得ず38度線を突破したと言う事実を作ることにし、ウォーカー中将に具申して承認を得た後現地に赴き、10月1日北進を命じた。不安材料はであった独 断での突破であったが、この時既に米国側も38度線の突破を決定しており、問題となることはなかった。10月2日、「10月3日午前零時以降、38度線の 突破を命ずる」という一般命令二号が発令され、10月6日、韓国第2軍団が38度線を突破し、北への進撃を始めた。一方国連安保理では、38度線突破がソ 連の拒否権発動によってその都度葬られ、米国はこれを総会に提議した。総会は紛糾の末に10月7日、遂に38度線突破を議決し、この知らせ受けたマッカー サー元帥は10月10日、第8軍に北進を下命した。

g428267マッカーサーは、第10軍団を仁川と釜山で乗船させ、半島東側にある元山に上陸し第8軍団と共同で平壌を攻略すると考えており、10月2日にはぞれぞれが 乗船のために移動を開始する。現地司令官はこの案に懐疑的、批判的な意見が多かったが、マッカーサーは自説を撤回せず、ところが移動に手間取っている間に 韓国軍第1軍が元山を攻略してしまい。上陸作戦は空振りに終わり、その後の平壌攻略にも第10軍は間に合わず、なんら寄与することがなかった。38度線の 北方約140kmにある元山は、陸路、海路の要衝で、戦略上非常に重要な位置を占めていた。北進を続ける韓国第1軍団は、敗走を続ける北朝鮮軍を排除しつ つ9日には本山を見下ろす高台まで進出した。元山を防御する北朝鮮軍は二重の防御線と2万人の兵員を擁していたが、東西から挟撃してきた韓国軍に敗退す る。韓国第2軍団は11日には元山を占領し、この知らせを受けて西へと変進した韓国第2軍団と共にピョンヤンを目指す。

南 と東の二方向から平壌を目指す米第1軍団は、10月19日より平壌攻略を開始する。当初予備部隊に回されていた韓国軍であったが、韓国軍第1師団長白善 は、敵の首都である平壌攻略に韓国軍が参加しないのであれば作戦の意義が薄れると米第1軍団長ミルバーン少将に直訴、これが受け入れられて韓国第1師団が 東ルートの先鋒を務める事になり、南ルートの先鋒である米第1騎兵師団と先陣を争う事になる。10月19日、韓国第1師団は平壌市内を流れる大同江を渡河 して旧市街に突入する。それに遅れること数十分後、第1騎兵師団も平壌に入るが既に軍主力と北朝鮮上層部は逃走しており、翌20日に行なわれた米第187 空挺連隊による降下作戦で退路を遮断して捕捉撃滅する作戦も空振りに終わってしまう。とは言え平壌は激烈な戦闘の末に国連軍の占領下に入ることになる。

マッ カーサーは残る北朝鮮軍撃滅のためには、それまで定めていた国連軍の北進限界線から、さらに宣川〜古仁洞〜坪員〜豊山〜城津を結ぶ線へと進出する事がが必 要と判断し、10月19日これを発令した。この新たな進出線は後に「新マッカーサー・ライン」と呼ばれる事になる。その後も国連軍は快調な進撃を続け10 月24日、戦争終結の目処がついたと判断したマッカーサーは鴨緑江への総追撃を命じた。さらには1週間前に発令した「新マッカーサー・ライン」をも破棄し て全部隊へ速やかなる中国国境への進撃を命じる。韓国第1師団が青山鎮へ到達すると、今までにはない抵抗に遭遇した。何とかこれを撃破して投降してきた捕 虜を尋問してみると北朝鮮兵ではなく、なんと中国兵あった。、他にも各地で中国兵出没の報が聞かれていたが、中国の正式な参戦の兆候はなく、私的な義勇兵 ではないかと考えていた。後にこれが非常に甘い判断であったと気付かされる事になる。中国の公式参戦である。

侵攻開始<<仁川上陸作戦 >>中国軍参戦

Korea War(2) −侵攻開始 −

2月 4, 2009 by editonal  
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1950年6月25日、季節は梅雨に入りこの日も雨が降っていたといわれている。演習と称して国境付近に集合していた北朝鮮軍は、この悪天候を利用 して北朝鮮軍は、火砲600門、迫撃砲1000門を以って攻撃準備射撃後、歩兵7個師団と戦車1個旅団が左右にわかれて全域で38度線を突破した。

左翼を担当し、ソウルを目標とする北朝鮮第1軍団は、西から第6師団、第1師団、第4師団、第3師団がソウルを包囲する形で進撃し、後方から第105戦車旅 団がこれを支援した。一方の半島東部では北朝鮮第2軍団が配備され、第2師団、第7師団、第5師団が南に進撃を開始した。またこれとは別に、第766部 隊、第549部隊が後方撹乱の目的で江陵の南に奇襲上陸した。

対する韓国軍は、部隊改編の直後であり、かつ6月11日に出されていた非常警戒令が解除されてほとんどの部隊で外出や休暇が許可され、加えて前日の6月24 日には軍の高級幹部を集めたパーティーが催されていたこともあって、満足な反撃を行なえないまま壊走する部隊が多く、特に北朝鮮第一軍の攻勢正面では、供 与されていた2,36インチロケットランチャーではソ連製戦車の突進を止める事が出来ず、首都ソウルは侵攻から僅か3日で北朝鮮軍の侵入を許してしまう。 しかし北朝鮮第2軍は、韓国軍の頑強な抵抗と山がちな地形に前進を阻まれ、ソウル周辺で韓国軍主力を捕捉撃滅する事ができずにいた。だがここで韓国軍は、 ソウルの南に架かる漢江橋を町から脱出する難民もろとも爆破してしまう。この行為によって退路を断たれたソウル防衛任務についていた韓国軍は戦意を喪失 し、戦線が瓦解してしまう結果となり、ソウルは多くの一般市民を残したまま北朝鮮軍の手に落ちる。

06_26国連安保理は、25日午後2時(韓国時間午前26日)、北朝鮮軍の進攻を侵略行為と規定し、北朝鮮軍の撤退を求めたが、北朝鮮軍はこの決議を無視し、進撃を 止めようとはしなかった。東京のマッカーサー元帥から韓国軍崩壊の危機と李承晩からの救援要請があったことを告げられたトルーマン大統領は、それまでの不 干渉姿勢を改め、27日には極東に配置されていた米海空軍に対し、38度線以南にいる北朝鮮軍に対し攻撃を指令する。指令を受けた米極東空軍は直ちに出撃 し、27日早朝にソウル近郊の金浦空港から撤退する輸送機の護衛任務を開始する。この作戦中、F-82ツインムスタングが北朝鮮軍のYak7戦闘機を撃墜 し、朝鮮戦争での初撃墜を記録。午後には、F-80シューティングスターがIl10攻撃機を撃墜し、米空軍初のジェット戦闘機による撃墜を果たす。首都ソ ウルを占領された28日からは北朝鮮地上軍に対する攻撃が開始され、これらの出撃はすべて日本から行なわれた。F-80の攻撃機としての能力は主に行動半 径のせいで十分ではなかったが、当時の韓国国内にはジェット戦闘機の運用が可能な航空基地が存在せず、アメリカ国内では当面の作戦の為に退役の進んでいた F-51ムスタングが急遽集められ、現役に復帰させることになる。

米 極東海軍は28日から日本海に展開して半島の東海岸へ向けて艦砲射撃を行い、南下中の北朝鮮第5師団の行動を阻害する。7月3日には米空母ヴァリー・ フォージ(27,100t)と英空母トライアンフ(13,350t)から発艦した攻撃機が平壌の飛行場を爆撃する。この戦闘で米海軍のF9Fパンサーが北 朝鮮軍のYak9戦闘機を撃墜し、米海軍ジェット戦闘機の初陣を勝利で飾った。

米ソ全面戦争への危機感から地上軍の派遣を渋っていたトルーマン大統領であったが、マッカーサー元帥の現地視察空の報告を受けて遂に地上部隊の投入を決定 し、6月30日には日本に駐留していた第24師団に出撃命令を下し、追って第25師団、第1騎兵師団(共に日本駐留部隊)にも出撃命令を下す。

ソ ウル周辺を征圧した北朝鮮軍は、不思議な事に進撃をストップさせ、首脳部はソウル政庁で戦傷祝賀会を2日にわたって行なうなど貴重な時間を無為に過ごして しまう。これが、後に言われる事になる「謎の三日間」である。結局ソウルで3日、米軍投入決定の知らせを聞いて再度南進を行なう準備に2日と、計5日の貴 重な時間を韓国軍に与えてしまい、この間に緒戦の奇襲攻撃の優位性を失い韓国軍に立ち直らせるきっかけを与え、かつ米軍投入までの時間さえも与えてしま う。やっと7月3日未明に南進を再開した北朝鮮軍は、7月5日早朝、投入された米地上軍と放火を交える。

鳥山に展開していた米陸軍部隊はここで北朝鮮軍を迎え撃とうと試みたが、有効な対戦車兵器を装備したいなかったこともあり敗走し、他の部隊と共に天安に退却 する。北朝鮮軍はこれを追って天安市街に入り、市街戦で米軍は連隊長を含む多くの兵員が戦死し天安を放棄、その後も北朝鮮軍の追撃は続き7月11日には戦 線を放棄して後方に撤退してしまう。

7月7日、国連安保理は国 連軍の創設を決議し、その司令官の任命をトルーマン大統領に委ねた。翌8日、トルーマンはマッカーサー元帥を司令官に任命し、ここに史上初の国連軍が誕生 する。ちなみに、国連憲章に基づく厳密な意味での国連軍とはいえない面もあったが、米国にとってはその方が都合が良かったとも言える。7月14日、李承晩 大統領はマッカーサーに書簡を送り、韓国軍も国連軍の指揮下に入れるように要請した。これを受けたマッカーサーは、韓国三軍をそれぞれ米陸軍第8軍 (ウォーカー中将)国連海軍(ジョイ中将)国連空軍(ストラメイヤー中将)の指揮下に組み込んだ。後に参戦する各国も同様にそれぞれの指揮下に入ることに なる。

7月7日、北朝鮮軍は高い進撃速度を保ちつつ大田地域と 小白山脈で敵集団を捕捉殲滅するために再度攻勢を開始した。米軍は第24師団に続き第25師団、第1騎兵師団を派遣し、これとは別に膨大な物資を釜山に上 陸させる。相次ぐ派遣で日本の守りが手薄と感じたマッカーサーは7月7日、警察予備隊を発足させるよう日本政府に書簡を送った。日本の戦後は大転換を迎え る事になる。

7月13日、大邸に司令部を解説したウォーカー中 将は、錦江〜小白山脈の線で北朝鮮軍を阻止すと言う作戦命令第1号を発令し、第24師団には錦江の防御を、韓国軍には小白山脈での進撃阻止を命じたが、連 絡の齟齬に加え、側方を迂回してきた北朝鮮軍に後方を遮断されたことによりまたもや大田へ退却し、追撃してきた北朝鮮軍との戦闘で第24師団のディーン師 団長が捕虜となる。第8軍司令部は、約半数の兵員と装備を失った第24師団を後方に下げ、到着したばかりの第25師団を尚州に、第1騎兵師団を永同に配備 し、北朝鮮の進撃を止めようとしたが、局所的には北朝鮮軍を押しとどめる戦闘があったものの、続々と流入してくる避難民やこれら市民に紛れて侵入してきた ゲリラ戦部隊に後方を撹乱され、7月20日には大田が陥落し、遅滞行動を繰り返しつつも釜山へと追い詰められていった。

7 月末日、いままで行方のわからなかった北朝鮮第6師団を晋州方面で探知し、釜山西方からの脅威がにわかに急増した。この危機にウォーカー中将は、洛東江ま で戦線を下げてここを最終防衛ラインとする事を決定した。いわゆる釜山橋頭堡、洛東江防御線、あるいはウォーカー・ラインと呼ばれる陣地線である。

f86-15一ヶ月あまりの長期作戦と、米第5空軍主力の圧倒的な航空優勢化の下北朝鮮軍は補給物資と兵員の不足に苦しみ始める。金日成の中では米軍の介入の可能性を全く 予想していなかった節があり、韓国軍の実力も見縊っていた。また、期待していた南朝鮮労働党員による一斉蜂起も起こらず、8月に入ると食料の現地徴発や占 領地域での徴兵などのトラブルが多発する。加えて戦闘を放棄して逃げ出す兵士が続出し、軍の政治委員から「逃亡兵は階級の如何を問わずその場で射殺せよ」 という指令まで飛び出した。このような「進むも地獄、退くも地獄」といった状況の中、北朝鮮軍は釜山橋頭堡に追い詰めた国連軍を追い落とそうと攻撃を繰り 返した。

北朝鮮軍の8月攻勢から9月攻勢が集結する9月中頃ま での一ヵ月半に渡り、国連軍と北朝鮮軍は一進一退の攻防で、北朝鮮軍が各所で突破し、国連軍が圧倒的な砲爆撃に支援され撃退すると言った図式で8月末まで 繰り返された。何度かの危機的状況はあったものの、全般的に言うと着々と増強される国連軍に比べ、燃料、弾薬、食料に枯渇していた北朝鮮軍はジリ貧とな り、9月初旬には全ての予備兵力をかき集めて攻勢に出、永川を占領するもその後が続かず、9月中旬になると次第に下火になっていた。北朝鮮軍は限界に達 し、攻勢終末点を向かえたのである。

日本の敗戦から南進まで<<侵攻開始>>仁川上陸作戦

Korea War(1) −朝鮮戦争史−

2月 4, 2009 by editonal  
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日本の敗戦から南進まで


1945年8月15日、日本の敗戦によっ て36年間続いた朝鮮半島の日本統治は終わりを告げ、朝鮮半島は北緯38度線を境に分割統治された。8月9日にソ満国境を越え南に進撃していたソ連軍は 26日に平壌に入城し、同年12月に締結された「モスクワ協定」により、南北の分割統治は5年後に南北統一臨時政府を作るまで続けられる事になった。

当時のアメリカは日本の占領政策に奔走しており、太平洋の対ソ封じ込めとして考えられていたアリュージャン〜日本〜フィリピンに至るラインに朝鮮半島は含ま れておらず、その戦略的価値はあまり考えられていなかった。一方のソ連政府も、第2次世界大戦の痛手から立ち直ってはおらず、また東欧諸国の共産化に奔走 していた時期であり、アジアおよび極東地域は後回しにされていた。しかし、第2次世界大戦末期から噴出し始めた東西の対立構造は次第にその深刻さを増し始 め、先の「モスクワ協定」に反して南朝鮮が大韓民国としてアメリカの後押しを受けて独立し、李承晩が初代大統領となると、一方の北朝鮮でも、ソ連の後押し を受けた金日成が朝鮮民主主義人民共和国として独立し、互いに対立の度合いを深めていく。

1949年3月、金日成は朴憲永副首相兼外相ら6人の閣僚と共に初めてソ連を訪問し、スターリン首相、モロトフ外相らと会談する。この会談で、表向きは経済、文 化、借款などについての協定に調印したことになっているが、フルシチョフの回顧録によるとこの時金日成はスターリンに南進計画を打ち明け、また、1950 年6月25日に北朝鮮軍が行動を開始する日付までもが合意されたといわれている。以後北朝鮮、中国、ソ連の3カ国はこのタイムスケジュールに沿って戦争準 備を行なうことになる。

1949 年の春から夏にかけて、武力統一に向けてスターリンの承認を得た金日成は、中国共産党との話し合いを進め、毛沢東は人民解放軍に所属する朝鮮系中国人の兵 士約3万人を装備付きで供与することを決定する。彼らは旧満州や吉林省で徴募あるいは志願した将兵で、国共内戦時には林彪の指揮する東北野戦軍、後の第4 野戦軍で豊富な実戦経験を持っており、緒戦での基幹兵力として活躍する。しかしこの部隊は後の中国人民義勇軍とは違い全員が朝鮮人民軍へと組み込まれ、中 国介入の事実は巧妙に擬装されていた。また、この部隊が北朝鮮に入るのと歩調を合わせるかのように朝鮮人民軍も続々と編成され、1948年末に撤退した在 北朝鮮駐留ソ連軍が残していった装備をそっくり受け継いだ朝鮮人民軍は、短期間の内に戦車、大砲などの近代兵器を手にした有力な部隊へと変化していった。

kim1949 年10月、アメリカの支援を受けた蒋介石率いる国民党と、ソ連の支援を受けた毛沢東率いる共産党との間で行なわれていた国共内戦が共産党の勝利で終わりを 告げると、アメリカは、環太平洋アジア諸国に共産主義が広がっていく、いわゆる「ドミノ理論」への恐れから、朝鮮半島を共産主義への防波堤として捉える動 きが噴出し、にわかに重要性が増し始めた。一方のソ連においても、ウラジオストック以南にある不凍港の確保と、かつての日露戦争での敗退で挫かれたアジア への覇権拡大という構想から、その重要性を再認識していた。

年があけた1950年、朝鮮半島を巡る情勢はよりきな臭いものとなって行く。北朝鮮軍は開戦までに12個師団計15万人を擁し、ソ連製T-34/85を約 250輌、多数の大砲を装備し、ソ連式軍事ドクトリンを叩き込まれていった。対する韓国軍は、8個師団8万4千人の兵力を擁していたが、機甲部隊はなく、 砲熕兵器及び対戦車火力、航空戦力、士気など全ての面に劣っていた。

この時期の米極東司令部とマッカーサーの動きを見ると、彼らは北朝鮮南進の兆候を知っていたのではないか、という印象を受ける。1949年6月に米極東司令 部が設置したKLO(韓国連絡所)の裏の顔は対北朝鮮用の諜報機関であり、設置から開戦までの間に送られてきた情報によって北朝鮮軍の動向をほぼ正確につ かんでいた。また、日本の後方基地化への動きなどを見ると、マッカーサーは南進を知っていて、あえてやらせたのではないかと、日本の真珠湾攻撃と同じ事が 起こったのではないか思えてくる。

金日成がスターリンと約束した開戦の日は、刻一刻と近づいていた。

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