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中東戦争全史(9)

2月 4, 2009 by editonal  
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第四次中東戦争における関係各国の動向

第四次中東戦争は、単にアラブとイスラエルの領土争いと言う面だけではなく、第二次大戦後初めて米ソの2大超大国を中心とする冷戦構造の枠組みの中で国際 紛争の解決が模索された出来事でもあった。この戦争には当事者3国に加え、アルジェリア、イラク、クウェート、サウジアラビア、スーダン、チュニジア、モ ロッコ、ヨルダン、リビアの各国がアラブ側に立って兵力を送り込んだが、戦局が目まぐるしく変転した第四次中東戦争を終結へと導く上で、最も大きな役割を 果たしたのがこれら直接の戦争参加国ではなく、アラブ各国やイスラエルの実質的武器供給源であったアメリカとソ連の2大国だったのである。その中でも、と りわけ重要な役回りを演じたのがアメリカ合衆国の国務長官ヘンリー・キッシンジャーである。

彼 と第四次中東戦争の関わりは、開戦翌日の10月7日には早くも始まっており、この日、エジプト側の戦争終結条件についてのメッセージをサダト大統領の顧問 ハフェズ・イスマイルを通じて受け取っていた。以前よりソ連との関係を疎ましく感じていたサダトは、必然的にアメリカへの傾倒を強めており、この条件はイ スラエルが受け入れる事は到底考えられない内容であったが、キッシンジャーはサダトがアメリカに対して積極的な形での仲介工作を欲していると言う事を重要 視し翌8日、イスマイルに対しアメリカは中東問題の解決に本格的な介入を行なう事を約束し、具体的な介入について方策を練るのと同時に、ソ連に対しても同 様の働きかけを行なう事が必要だと結論に達した。

10月16 日、サダトはエジプト議会で演説を行い、キッシンジャーに宛てたメッセージとほぼ同じ内容の声明を発表し、これに対しアメリカ大統領リチャード・ニクソン とキッシンジャ-は翌17日、国連総会のために渡米していたサウジアラビア、クウェート、モロッコ、アルジェリアの外相と会談し、キッシンジャーが交渉約 として中東問題の解決に向けて動き始める事を正式に通知した。また、時を同じくしてソ連にも停戦の実現に向けたメッセージを送り、この呼びかけに応じたソ 連のプレジネフ書記長は10月19日、協議のためキッシンジャーをモスクワに派遣するようニクソンに要請する。

10月20日、モスクワを訪問したキッシンジャーはブレジネフと協議を重ね、国連安保理に提案する停戦決議の内容について話し合った。この頃までには既に、ソ 連側も戦局がアラブ側に不利な状況に傾いている事を承知しており、翌21日にはキッシンジャーの作成した米国案をほぼ受け入れる事で合意する。10月23 日、国連安保理で米ソ共同決議案は、決議第338号として正式に採択された。これによって第四次中東戦争は終結へと向かったが、この決議は同時に誰もが予 想していなかった恐るべき事態を招く事になる。

国連決議第 338号の採択から2日後の10月24日、キッシンジャーは駐米ソ連大使ドブルイニンからの電話を受けた。ドブルイニンは、ブレジネフ書記長からニクソン 大統領に宛てた書簡を受話器に向かって読み上げた。「エジプトのサダト大統領は国連安保理に対して、米ソ両軍の中東派遣を正式に要請している。我々はこの 要請に答えるつもりである。もしアメリカが中東への派兵を拒否するのであれば、ソ連は単独でも軍隊の派遣を行なうつもりである。」

このメッセージが伝わった時点で、アメリカ政府は既にソ連軍中東派兵の兆候に関する情報を各方面から入手しており、ゴラン高原の戦局がイスラエル側に傾きだ した時点では空挺師団のみの派遣を検討していたが国連決議が採択された頃までにはその規模は7個師団に達していた。また、エジプトとシリアに対するソ連か らの武器空輸は10月23日に停止していたが、これはソ連正規軍の空輸のためであるとの未確認情報も届けられた。アメリカのニクソン大統領はこの時、 ウォーターゲート事件に関する疑惑を追及されており、ドブルイニンからの電話は、彼の大統領としての指導力が揺らぎ始めていた矢先の出来事であった。アメ リカ政府内の動揺と弱体化を見抜いたソ連は、停戦維持に名を借りた派兵によって、念願であった中東への直接進出を実現する好機と見て取ったのである。

キッ シンジャーにとってこのような申し出は絶対に受け入れることの出来ない話であり、直ちに安全保障問題の政府高官を集めて対策会議を開いた。議長であるキッ シンジャーの他、シュレジンジャー国防長官やコルビーCIA長官、ムーラー統合参謀本部議長、ヘイグ大統領主席補佐官などが出席したが、睡眠中のニクソン にはソ連大使からの連絡があったことさえ知らされなかった。この会議の結果、全世界に駐留するアメリカ軍に対し、「デフコン?」を発令する事が決定され、 SACの戦略爆撃機とICBMサイロは、1962年のキューバ危機以来の警戒態勢に入った。また、陸軍第82空挺師団も25日午前6時には出撃態勢を整 え、東地中海には既に展開していた空母インディペンデンスに加えてルーズヴェルトとジョン・F・ケネディの2隻が急遽増派された。そして、東ドイツに駐留 するソ連軍が出撃準備を開始したとの情報がホワイトハウスに入ると、米ソ両国を巡る情勢は一触即発となった。ソ連側からは既に、核弾頭を積んだ貨物船がエ ジプトに向けて出向した事が確認されており、もし米ソ両軍の間で戦端が開かれたなら、全世界規模での核戦争の危険さえも孕んでいることは容易に想像でき た。翌朝、キッシンジャーから情勢についての説明を受けたニクソンは、既にキッシンジャーによってニクソンの名で起草されていたプレジネフへのメッセージ に署名して、以下の内容を午前5時半頃にソ連側へと伝達した。

「米ソ両軍の中東への派遣は全く必要ないものと確信している。また、アメリカはソ連が中東地域において、一方的な軍事的行動を執る事を決して認めないであろう。」

キッ シンジャーはまた、もし核弾頭がエジプトへと運び込まれた場合、イスラエルは総力を挙げてこれを破壊するための攻撃を開始するであろうとし、アメリカはこ れに反対しないという非公式のメッセージを外交ルートで伝えさせた。ウォーターゲート疑惑の追及で憔悴したニクソンに代わり、実質的な国家指導者として諸 々の決定を行なったキッシンジャーの毅然とした態度は、ソ連側の態度を大きく揺り動かした。もはやアメリカに対する優位は失われたと判断したブレジネフは 同日午後、ソ連軍を中東へと派遣する意思の無い事をアメリカ側に伝えるのと同時に、中東の停戦監視は国連緊急軍によって行なわれるというプランを支持する 事を明らかにした。これによって、地球規模での全面戦争は回避され、第四次中東戦争の停戦をめぐる問題は、再び中東の地域的問題へと収束していったのであ る。

米ソ両国の最高指導部の和解によって全面核戦争の危機は回避されたが、そのような動きをとほぼ時を同じくして、中東の産油国では世界経済に大きな衝撃を与えることになる重要な政策の変更が行なわれようとしていた。いわゆる「石油戦略」の発動である。

第 四次中東戦争の開戦3日目に当たる10月8日、OPEC(石油輸出国機構)と石油会社それぞれの代表者がオーストリアのウィーンに集まり、原油価格につい ての交渉が行なわれた。OPECとは、1960年にイラク、イラン、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの5大産油国が合同で設立した国際協議会で 1973年当時は12カ国が加盟しており、原油価格の安定と産油国の利益の保証、産油国間の石油災策の強調などをその活動目的としてきた。しかし、設立か ら第四次中東戦争までの間に、OPECという組織が果たした役割は、極めて小さなものだった。この時代は境的に見て原油の供給過多であり、イランやサウジ アラビアなどはオイル・マネー欲しさに、自国で採掘を行なっている外国の石油会社に対し更なる産出量の増産を迫っているほどだった。産油国と石油会社の力 関係においては圧倒的に石油会社のほうが上だったのである。ところが、第四次中東戦争を機にこの図式は大きく転換する事になる。ウィーン会議の席上、 OPECの代表は原油価格の30〜50%の引き上げを石油会社に要求したのである。このような強硬姿勢の背景には、中東で再び勃発した戦争において、同胞 であるアラブ諸国を側面から支援しようというサウジアラビアの思惑が働いていた。ウィーン会議に出席していた石油会社の代表は、OPEC側の提示を拒絶 し、話し合いは物別れに終わった。しかしOPECは諦めず、16日にクウェートで再開された会議も決裂に終わると、産油国は石油会社の同意を得ることなく 一方的な原油価格の7割引き上げを決定した。この値上げは後に4倍増まで引き上げられる事になる。これに続いて、エジプト、シリア、サウジアラビアなどア ラブ10カ国が1968年に設立したOAPEC(アラブ石油輸出国機構)は翌17日、原油生産の5%削減を決定すると共に、第三次中東戦争以前の境界線ま でイスラエル軍が撤退しない限り、以後毎月5%づつ削減を行なうとの方針を発表する。キッシンジャーはサウジアラビアに対し、アメリカのイスラエルへの武 器援助はソ連の中東への影響力拡大に対抗するためのものであり、反アラブを意図した政策ではないと弁明したが、10月19日にニクソン大統領がアメリカ議 会に対し、22億ドルもの対イスラエル軍事援助を要求すると、サウジアラビアをはじめとする国々のアメリカに対する反発は決定的なものとなった。

10 月20日、サウジアラビアがアメリカに対する全面的な石油の輸出禁止を発表すると、数日の内にイラクを除くアラブ産油国の全てがアメリカとオランダに対す る石油禁輸措置を発表した。11月4日にはOAPECの減産規模が25%にまで拡大され、欧米諸国に対するアラブの対決姿勢はより明確なものとなった。こ の決定を聞いて、最も驚いたのは西ヨーロッパの各国と日本で、エネルギー資源の大部分を中東各国からの原油の輸入に頼っていたこれらの国々では、アラブ諸 国の「石油戦略」の発動によって大きな経済的混乱が生じ、自国の経済を守る上で彼らは次々とイスラエルとの関係を見直し、親アラブの中東政策を発表した。 そして、OAPEC加盟国はこれらの国を「友好国」と分類して、限定的な原油産出量の増産を行なったのである。しかし皮肉なことに、アラブがイスラエルに 次ぐ敵国と見なして戦いを挑んだアメリカは、この「石油戦略」による打撃を殆ど被る事は無かった。1972年当時、アメリカのエネルギー供給に占める輸入 原油の割合はわずか5%に過ぎず、しかもアラブ諸国からの輸入量はそのうちの18%に過ぎなかったのである。それどころか、原油価格の高騰はアメリカに本 拠を置く巨大石油企業(メジャー)に莫大な利益をもたらし、これによって国際為替市場におけるアメリカドルの力は急激に強化された。

結果的に、アラブ諸国の発動した「石油戦略」は彼らが期待したほどの政治的効果をもたらす事は出来なかった。OAPECは1974年3月18日には対米禁輸 措置の解除を発表し、7月10日にはオランダに対する禁輸も解除された。不用意な「石油戦略」の発動は、アメリカの国力増強に寄与するだけだという事実を 思い知ったアラブ各国は、これ以降2度と対イスラエル戦争と「石油戦略をリンクしようとはしなかったのである。

参考文献

世界民族地図    浅井信雄  新潮文庫
中東戦争全市    山崎雅弘  学研M文庫
ユダヤ人とドイツ  大澤武男  講談社現代新書
イスラームとは何か 小杉秦   講談社現代新書
世界の戦車(2) 第二次世界大戦後〜現代編    デルタ出版
世界の傑作機No,70「ダッソー・ミラージュ?」  文林堂
世界の傑作機No,82「F-4ファントム?輸出型」  文林堂
世界の傑作機No,83「MiG-25フォックスバット」 文林堂

他にうろ覚え、つまみ読み多数有り。(Text:Takashi Matt)

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中東戦争全史(8)

2月 4, 2009 by editonal  
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第四次中東戦争

第三次中東戦争で劇的な勝利を収めたイスラエル国内では、最早アラブ諸国はパレスチナ問題を武力で解決する道を諦め、和平交渉のテーブルに着くのではない かという、やや楽観的とも言える世論が高まっていたが、戦場での大敗によってやむを得ず停戦決議を受諾したアラブ諸国の態度は、イスラエル国民の期待とは 逆の方向へと流れていった。アラブ各国の首脳は1967年8月中旬にスーダンのハルツームで会議を開き、対イスラエル交渉において「講和せず、交渉せず、 承認せず。」という「3つのノー」をアラブ諸国の統一意思と定義した。

そして、これらアラブ諸 国の対外的結束の陰でパレスチナをめぐる新たな闘争が始まろうとしていた。難民として周辺アラブ諸国に逃れていたパレスチナ人ゲリラ勢力に対する、アラブ 各国政府による本格的な弾圧が開始されたのである。アラファト率いるファタハのテロ活動が引鉄となって始まった第三次中東戦争で壊滅的打撃を被ったアラブ 各国の首脳達の間では、それまでの熱狂的な反イスラエル感情の高まりから一転し、戦争の終結と共に自国内のパレストナ人ゲリラの拠点を次々と摘発していっ た。イスラエルの圧倒的な軍事力の前では、パレスチナ問題への深入りは自らの首を絞める事に他ならなかったのである。

sharonyomkippur73こうした各国の思惑を他所に、アラファト率いるファタハは天敵イスラエルへの武力闘争を止めようとはしなかった。停戦翌月の67年7月には、早くも医師に変 装してイスラエルに密入国したアラファトがラムラやエルサレムなどに姿を現し、先の戦争で大勝した事による気の緩みに付け込みヨルダンやシリアなどから各 種の武器をアジトに運び込んだ。そして、高等教育を受けたパレスチナ出身の若者達が祖国パレスチナの窮乏を見かねて続々とファタハに志願し、反ユダヤのテ ロ活動に身を投じていった。このような反イスラエル・テロ組織の勢力拡大は、先の大戦で大打撃を受けたエジプトやヨルダンにとっては迷惑極まりない話で あった。特にヨルダンでは大量流入したパレスチナ難民が国民の約半数を占めるまでに膨れ上がっていた。その配慮からゲリラ組織への寛容的な対応を強いられ ており、イスラエルへの挑発的なテロ活動を放置しておけばイスラエルからのヨルダン本国への苛烈な報復を招く事は確実だった。事実1968年3月18日、 遠足から帰る途中のユダヤ人児童を乗せたバスが南部の砂漠を走行中パレスチナゲリラの設置した地雷を踏み、29人が死傷する事件が起こると報復としてイス ラエルは3日後の3月21日に、機甲部隊と武装ヘリを投入してヨルダン領内へと侵入し、ファタハの拠点があるカラメの町を攻撃している。この戦闘では有効な対戦車火器を持たないアッシーファ守備隊の壊滅は必至かと思われていたが、イスラエルの予想に反してヨルダンがファタハ支援の為に正規 軍を投入した事から戦局は徐々にアラブ側へと傾き始め、10時間にわたる激戦の末、イスラエル軍はカラメの攻略を諦め退却する。

イ スラエル軍を退却させた事はアラブ人勢力、とりわけファタハの威信を大きく回復させ、アラブ人社会は勿論アメリカのタイム誌のまでもが新時代の闘士アラ ファトの勝利を報道し、1969年2月、アラファトは正式にPLOの議長に選出された。PLO創設以来の穏健派メンバーは指導部から一掃され、代わって ファタハを始めとする武闘派勢力が実験を掌握した事により、この後世界中を震撼させるテロ組織へと急速に成長していくことになる。アラファトの執行部議長 就任に先立つ1968年7月、PLOは「パレスチナ民族憲章」と呼ばれる声明文を採択した。この声明は、カラメの勝利によって高揚した民族意識を高らかに 謳い上げると同時に、宿敵イスラエルに対する武装闘争をその骨幹としていた。当時のパレスチナ・ゲリラ組織の中で、ファタハに次ぐ勢力を誇っていたのは 「サイカ(雷鳴)」と「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」の二つだったが、前者は1963年にシリア政府の支援を受けて創設されたテロ組織で、後者は 1967年11月に既存の組織である「パレスチナ解放戦線(PLF)」「帰還した英雄(HR)」、「若き復讐者」の3つが合同して設立した組織だった。そ してカラメの勝利以後、新たなパレスチナ・ゲリラ組織が次々と設立され始めた。1968年、エジプト諜報組織の支援を受けた「アラブ・シナイ機構」、翌 69年には「アラブ解放戦線(ALF)」ヨルダンの「パレスチナ解放行動委員会(ACLP)」サウジアラビアの「サウジアラビア・テロリスト機構」などが 誕生し、パレスチナ勢力を支持するアラブ人ゲリラの兵力規模は一気に拡大した。

し かし、パレスチナ解放という大義名分を掲げるこれらゲリラ組織は、アラブ諸国の領土を拠点として「間借り」するだけに留まらず、彼らはパレスチナ人の民衆 的人気を背景に独自に資金集めのため勝手に通行税を徴収するなど、当該国の主権を脅かすような行動を取り始めたのである。このような傍若無人な振舞いに対 し、ヨルダン国王イブン・タラル・フセインは次第に彼らを危険な存在として見なすようになり、とりわけPFLPの議長であるジョージ・ハバッシュが公言し た「テルアビブへの道はヨルダンを経由する」という発言は国王の神経を大いに逆撫でし、1970年9月12日、アラブ諸国とイスラエルの和平交渉を妨害す る目的でPFLPが欧米系航空会社の旅客機3機をハイジャックしてヨルダンの空港で炎上させると、遂にフセイン国王は決断を下し9月16日の早朝、ヨルダ ン国内のパレスチナゲリラに対する一斉攻撃に踏み切った。

後に 「黒い九月」事件と呼ばれる事になるこの大規模な弾圧は、ヨルダン政府軍とパレスチナ人ゲリラ組織による全面的な内戦へと発展し、日頃パレスチナ・アラブ 人の勝手な振舞いを苦々しい思いで眺めていたヨルダンの「アラブ軍団」に所属するベトウィン達は、日頃の鬱憤を晴らすかのようにパレスチナ人に対する猛攻 を各地で繰り広げた。これに加え、パレスチナ・アラブ人支援のためシリア軍が国境を越えてシリア領内へと侵出し、ヨルダン軍の2個機甲旅団との間で激しい 戦車戦が展開された。

結局この内戦で約2万人の兵員を失ったパレスチナ人ゲリラは、息の頃の兵士を集めて国境を越えて隣国レバノンへと脱出していった。しかしヨルダンとパレス チナ人ゲリラとの争いはこれで終わったわけではなく、フセイン国王の強攻策は結果的にパレスチナ人ゲリラ組織を凶暴化させるきっかけとなってしまったので ある。

1971 年11月28日、カイロを訪問中のヨルダン首相ワシフィ・アル・タルが、シェトラン・ホテルに入ろうとした時、近づいてきた4人の男によって暗殺された。 犯人はPLOの傘下にある国際テロ組織「ブラック・セプテンバー」に所属するテロリストだった。ヨルダン内戦で大打撃を受けて以来、PLOはパレスチナ人 による様々な武装組織の集合体へと変貌を遂げていたが、ヨルダンの弾圧後程なくして誕生した「ブラック・セプテンバー」は、その中でもとりわけ過激な組織 としてPLOの間で頭角を表し始めていた。「ブラック・セプテンバー」はその名称が示す通りイスラエルだけでなく、同じアラブ人であるヨルダン当局者もそ のテロの標的にしており、パレスチナ人社会で彼らの人気が上昇するにつれ、他のゲリラ組織の活動もまた互いの刺激を受けながら過激化していった。

PFLP の代表者ジョージ・ハバッシュはパレスチナのロッドで生まれた生粋のパレスチナ人で、少年時代から反イギリスの抵抗運動に参加したという生来の活動家であ り、反イスラエルという目先の目標では一致していたものの、アラファトとはあらゆる面で対照的であり、例えば敬虔なイスラム教徒であり禁欲的で質素な生活 様式を送るアラファトに対し、ハバッシュはマルクス=レーニン主義を信奉し、宗教に関しては何ら価値観を見出しておらず、祖国パレスチナの復興に関しては 「アラブ・ブルジョワジーの打倒」が前提であるとの立場に立っていた。こうした思想の違いは、カラメの勝利によって次々と結成されていくパレスチナ・アラ ブ人組織を分裂と内部抗争へと追いやる事になる。そして、イスラエルの関連施設や市民を直接攻撃するよりも、一見無関係にも見える欧米諸国の民間人をテロ 事件によってパレスチナ問題へと引き擦り込むほうがパレスチナ問題への関心は高まり、国連のような国際機関による問題解決に向けた本格的な取り組みも始ま るであろうと彼らは考えるに至る。こうした方法論がパレスチナ・ゲリラ間に定着するのに時間は繋らず、とりわけ欧米の旅客機をハイジャックした結果ヨルダ ンの弾圧を招いたPFLPは、この種のテロ活動に執着した。しかし、無差別テロによって国際社会は一時的にはパレスチナ問題に関心が集まったものの、すぐ に彼らが期待していたのとは真逆の効果をもたらし始める。爆弾テロやハイジャックで人命を失った被害国の一般市民は、当然のことながらパレスチナ難民に対 する同情ではなく、残酷なテロリストに対する不信と憎悪を抱くようになったのでる。

1972 年5月9日、「ブラック・セプテンバー」の構成員4人によるハイジャック事件が発生し、ベルギーのサベナ航空の旅客機がイスラエルのロッド空港に強行着陸 させられる事態となったが、イスラエル当局は犯人と交渉する振りをして油断させた後、特殊部隊を突入させ死者6人を除く乗客全員の救出に成功する。この事 件で面目を潰されたブラック・セプテンバーは、すぐに新たなテロを実施した。同年9月5日、彼らはドイツのミュンヘンで行なわれていたオリンピックの選手 村へとテロリストを送り込み、イスラエル国内の刑務所に収監されているパレスチナ・アラブ人の囚人200人を開放するよう脅迫したのである。「ブラック・ セプテンバー」のメンバーはその場で2人の選手を射殺して要求を飲むよう迫ったものの、イスラエル政府がこのような取引に応じるはずも無かった。結局、翌 日に起こった銃撃戦で残る9人のイスラエル選手も死亡し、平和な祭典であるオリンピックは流血の惨事へと塗り替えられてしまった。そして、この事件をきっ かけに国際社会でパレスチナ・アラブ人の名は「情け容赦の無いテロリスト」として憎悪との対象として認知される事になる。

さて、一旦はアラブ諸国の停戦受諾によって収束した第三次中東戦争だったが、シナイ半島を占領したイスラエル軍とスエズ運河の西に布陣するエジプト軍との間 には、依然として散発的な戦闘が続いており、第三次中東戦争はそのまま「消耗戦(war of attrition)」と呼ばれる状態へと移行していった。エジプトにとっての第三次中東戦争は、空軍の壊滅とシナイ半島の喪失と言う2つの事態のうち、 とりわけシナイ半島全域を奪取された事は政治面のみならず経済面においてもナセル政権にとって大きな痛手であった。半島西端のスエズ運河対岸にイスラエル 軍恒久陣地が構築されたために、せっかく国有化に成功した運河の再開は事実上不可能となり船舶通行料と言う貴重な外貨収入が途絶えたばかりか、シナイ半島 南西部にある油田からの収入も断たれてしまった。

1967年6 月9日、緒戦の敗北の責任を取る形でナセルは大統領職の辞任を表明するものの、国民の熱狂的支持は敗戦と言う事実を前にしても揺らぐ事は無く、翌10日に は撤回する。しかし、彼に課せられたシナイ半島の奪還という責務は、容易なことでは実現しそうに無い難関であった。同年8月のハルツーム会議の後、ナセル はイスラエルに対し常に軍事的緊張を与える事で政治的交渉の糸口を見出そうという考えに至る。

1967 年9月21日、エジプト海軍のコマール級ミサイル艇から発射されたSS-N-2スティックス対艦ミサイル3発がイスラエル海軍の駆逐艦エイラートを直撃、 これを撃沈すると、アラブ諸国の民衆は湧き上がり、ナセルの戦略は一歩前進したかに見えた。しかし、この事件で47人の乗組員を失ったイスラエル側はその 報復として10月25日、スエズ近郊にあるエジプト最大の精油所を爆撃し、これを炎上させる。精油所の火災は数日間に渡り、エジプトの被った損害もまた大 きなものとなってしまった。現状のままではイスラエルとの均衡状態を打開できないと感じたナセルは、今まで以上にソ連よりの姿勢を強める事になり、一方の ソ連も中東への侵出拠点としてのエジプトの持つ知性的勝ちを認め、1967年以降各種の武器援助を増額していった。1968年3月に、エジプト領内の港湾 施設をソ連海軍の艦艇が使用することを認める期限5年の秘密協定が締結されると、ナイル下流の都市アレクサンドリアにソ連海軍の艦隊(黒海艦隊地中海支 隊)司令部が設置され、エジプトとソ連軍の軍事協力はよりいっそう緊密化していった。

ソ連式の軍事ドクトリンを教え込まれたエジプト軍は、スエズ運河沿いに1000門以上の火砲を配備し、1968年9月8日に大規模な砲撃を対岸のイスラエル 軍に加えた。この攻撃はエジプト国民の戦意を大きく煽り立てたが、イスラエル側も報復として10月31日の夜、特殊部隊員を乗せたヘリがナイル川上流に侵 入し、橋や変電所を破壊し、エジプト側に大きな損害を与えた。

moshedayan結局、第三次中東戦争終結から1970年8月までの3年間、イスラエルとエジプトはスエズ運河を挟んで砲爆撃を繰り返し、イスラエル側だけで戦死者594 名、負傷者1959名という人的損害を被った。(エジプト側の損害はその10数倍と見積もられている)ナセルは、イスラエルの強硬な姿勢を崩さない所と人 的被害の多さ見て戦略の転換を迫られ、スエズ運河越しの砲撃を中止するよう、エジプト軍の前線指揮官に要請する。一方イスラエル側では、参謀総長のハイ ム・パーレブ中将がスエズ運河沿いに広大な防御陣地を構築する計画を推進し、計33箇所の要塞拠点を中心とする陣地線、通称「パーレブ・ライン」の建設が 1969年1月に開始された。イスラエルの年間国防予算の1/3に相当する額が注ぎ込まれたこの防御ラインは1971年春には概ね完成した。パーレブ・ラ インの建設は、イスラエルの真意はシナイ半島の恒久的占領にあるという事であり、ナセルの目論んだ「常に軍事的緊張を与える事で政治的交渉の糸口を見出 す」という戦略は、より一層事態を深刻化させてしまう結果となった。エジプトとイスラエルがスエズ運河を挟んでの小競り合いを続けていた頃、プレジネフ書 記長の君臨する東の超大国ソ連は、エジプトへの軍事的支援を益々強めていた。1970年1月、ナセルが秘密裏にモスクワを訪問し更なる支援の要請を行なっ た事がきっかけとなり一気に拡大し、翌2月には、ソ連軍参謀総長マトヴェイ・ザハーロフ元帥を長とする約1500名のソ連軍事顧問団が、新型の短/中距離 用地対空ミサイル「SA3」を含む様々な対空兵器を携えてエジプトに到着する。これは同国がこれまでに派遣した軍事顧問団の中で最大規模だった。

イスラエルへの軍事援助に加え、サウジアラビアやヨルダンとも関係を深めるアメリカへの対抗上、エジプトはソ連にとって失うには惜しい中東への足掛かりだっ た。黒海の港を出発したソ連の貨物船は、あらゆる軍事物資を満載し続々とエジプトへ到着し、ナイル河畔ではソ連軍事顧問団による訓練が開始された。しか し、ソ連の狙いは地中海沿岸で安定した海軍基地を確保する事であり、長距離爆撃機などの兵器の供与は巧妙に回避されており、ナセルはそれが甚だ不満であっ た。しかし、アメリカがイスラエルに供与したF-4Eファントム?がエジプト上空に飛来し、カイロ近郊やナイル・デルタ周辺での示威飛行を繰り返すように なると、ソ連はイスラエル軍に対抗するためソ連空軍パイロットをエジプトに派遣することを決定した。そして、新型のミグ25R偵察機をエジプトの基地に (MiG25R×2、MiG25RB×2)派遣して、シナイ半島とイスラエル本土の偵察飛行を開始した。

当時のアメリカは、エジプトとソ連の緊密化に懸念を抱いてはいたが、ヴェトナム戦争の戦況悪化によって海外展開能力が低下しており、中東周辺におけるソ連の 影響力拡大を防ぐためにはイスラエルに最新兵器を供与することが最も効率的だとの判断の下、1967年10月にA-4Hスカイホーク攻撃機の供与を発表 し、翌68年12月には、F-4EファントムⅡ戦闘機50機を輸出するという契約をイスラエル政府との間で締結する。第三次中東戦争以前、イスラエルは主 にフランス製の軍用機を使用しており、戦後すぐに発表されたシャルル・ド・ゴール政権下のフランスによる武器禁輸措置がじわじわと聞き始めていたイスラエ ルにとって、この決定は何物にも替えがたいものであった。それに対抗するように、1971年9月には最新式のソ連製低高度用短中距離地対空ミサイルである SA6やZSU-23-4自走対空砲などが供与され、エジプト軍のスエズ運河周辺における防空能力は世界一とも言える水準にまで引き上げられた。この防空 網は、次なる戦争で恐ろしいまでの威力を発揮する事になる。

1970年9月28日、エジプト大統領ナセルは突然心臓発作でたおれ、そのまま帰らぬ人となった。度重なる精神的ストレスによる過労死であった、と言われている。 そして、副大統領から大統領へと昇格したモハメド・アンワル・エル・サダトは、ナセルが続けてきたイスラエルに対する強硬姿勢を基本的には継承したもの の、ソ連との軍事協力体制という問題については前任者と正反対の政策を執り始めた。ソ連に対するサダトの感情は決して良いものではなかった。一方のソ連側 のサダトに関する感情も決して芳しいものではなかった。サダトは第二次大戦中、エジプト軍内の親独派将校と共にエルヴィン・ロンメル率いるDAKとの連帯 を図った事が発覚して逮捕され、大尉の階級を剥奪されるという事件を起こしている。とはいえ、すでに膨大な人員と物資をエジプトに注ぎ込んでいるソ連は、 簡単にはエジプトから引き下がる訳には行かなかった。

1972 年7月18日、サダト大統領はソ連軍事顧問団の国外追放処分を発表する。そして、サダトはアメリカ対中東政策の事実上の責任者であるヘンリー・キッシン ジャー大統領補佐官(1973年9月以降は国務長官も兼任)と秘密裏に接触を行い、米ソ両国を両天秤にかける素振りを見せながら、長年続いていたソ連への 依存体質からの脱却と、武力によるシナイ半島奪回の実現に向けた準備を着々と進めていったのである。

サ ダトは、1970年11月の無血クーデターでシリアの政権を握ったハフェズ・アル・アサド大統領と親交を深め、1973年9月12日にカイロで秘密会談を を開いて、来るべき「対イスラエル戦争」での共闘を約束する協定に調印し、エジプト国防相アーメド・イスマイル・アリ大将とシリア国防相ムスタファ・タラ ス少将を長とする両国軍の高官達は、シナイ半島とゴラン高原で同時に実施される両面作戦の計画を推考し始めた。両国指導部では、イスラエルとの長期消耗戦 に陥る事だけは避けたい点で一致しており、とりあえずイスラエルに対して軍事的な大打撃を与える事が出来れば、米ソを始めとする大国が和平交渉に乗り出し てくる事は充分に期待できた。よって、イスラエルとの戦争計画は第一撃と緒戦の電撃的な侵攻に重点を置いたものとして立案された。イスラエルの諜報機関モ サドは、シリア国内に潜伏する諜報員を通じて両国のイスラエル攻撃準備の計画書を入手し、これをテルアビブに通報した。しかし、時のイスラエル首相ゴル ダ・メイア女史はこの情報を信用せず、軍部による先制攻撃案も全て却下する。モサド以外のイスラエル情報機関は全て、サダトによるソ連軍事顧問団の追放を 戦争準備の一時放棄と分析していたからである。

1973年10 月6日、ユダヤ教のの贖罪日(ヨム・キプル)にあたるこの日は、国営ラジオ放送や軍情報部の職員をはじめ、ほとんどのイスラエル人が自宅で休養をとってい た。イスラム教徒にとってこの月は断食月(ラマダン)であり、イスラエルはアラブ諸国がラマダンの期間中に戦端を開く事はあり得ないと判断していた。しか し周到に考えられたサダトの計画は、そのような先入観をも計画に入れたものだった。同日午後2時、イスラエル全土に空襲警報が発令された。モシェ・ダヤン 国防相をはじめとするイスラエル軍の高官は、前線から続々と寄せられる報告を前にしても、エジプト・シリア両面での戦争勃発を確信する事が出来なかった。 それでも、航空戦力と機甲戦力を駆使して即座に反撃を行なえば、充分に撃退できるという楽観論がイスラエル軍首脳部に蔓延していた。実際、第三次中東戦争 以降の小競り合いでは、F-4Eファントム?やA-4Hスカイホークなどの信頼性の高いアメリカ製航空機を装備したイスラエル空軍は、エジプト入りしてし ていたソ連空軍パイロットの操縦するMiG21などを圧倒しており、同じくアメリカ製のM48パットンやM60などの戦車は、故障しがちだった同世代のソ 連製戦車であるT54、T55、T62よりも十分に力を発揮していた。これらの経験から考えれば、戦場における優位は簡単に取り戻せると考えられたのであ る。しかし、消耗戦の集結以後にソ連がエジプトとシリアに持ち込んだ兵器の質と量は、イスラエルの予想をはるかに上回るものだった。10月6日の午後2時 5分、スエズ運河沿岸に展開していたエジプト軍の火砲4000門が一斉に火を吹き、250機のエジプト空軍機がシナイ半島上空に侵入して、パーレブ・ライ ンの要衝と前線指揮所に集中的な砲爆撃を加えた。その間に、運河正面に展開するエジプト陸軍の第2軍集団(ムハンマド・マムーン少将)及び第3軍集団(ム ハンマド・ワッセル少将)に所属する歩兵5個師団が、ボートや艀を使って運河を強行渡河し、午後8時までには8万人のエジプト兵が運河を越えてシナイ半島 へとなだれ込んだ。西暦624年に預言者ムハンマドがはじめて勝利を収めた戦場に因んで命名された「バドール作戦」の開始である。運河正面に展開していた アブラハム・マンドラー少将隷下のイスラエル軍第252機甲師団は反撃に向かうも、ソ連から大量に供与された携帯用対戦車兵器であるRPG7やAT3対戦 車ミサイルによって阻止され、翌7日には師団の保有戦車300輌のうち約半数が擱座する。

ま たスエズ運河周辺ではエジプト軍により周到に張り巡らされた防空網が、イスラエル空軍による近接航空支援をほぼ無力化することに成功していた。SA2、 SA3、SA6、SA7などのSAMとZSU-23-4自走対空砲などを組み合わせた防空コンプレックスは、イスラエル空軍が米軍から得たソ連製SAMに 関する情報が一世代古かったのと、事前のELINTが不十分だったせいもあり、戦場上空に飛来するイスラエル空軍機を次々と撃墜していった。こうした損害 の報告を受けたイスラエル空軍司令ベンハミン・ペレド少将は、スエズ運河及びパープル・ライン(第三次中東戦争のゴラン高原における停戦ライン)から15 キロ以内の空域には進入を禁止する通達を出すまでに至る。

味方 の防空コンプレックスの活躍によって戦場の航空優勢を確保したエジプト軍は、スエズ運河東岸で前進を続け、10月8日にはエジプト軍の兵站線上にある橋を 奪取しようとしたイスラエル軍第190戦車旅団を撃破し、旅団長アサフ・ヤーゴリ大佐を捕虜とする。翌9日、前線から続々と舞い込んでくる敗走の報告を聞 いたダヤン国防相は、エジプト軍への即時反撃の希望を捨て去り、シナイ半島に展開する全軍に防御陣地の構築を命じる。この時点で、シナイ半島に残るイスラ エル軍戦車の数は90輌以下にまで減少しており、開戦から3日間でイスラエル軍が被った損害は戦車400輌以上、死傷者3000人以上に達していた。また 8日に野戦病院へと構想された負傷兵は1500人程であったが、そのうち約900人が「シェル・ショック」の症状を呈していたと言う。イスラエル軍上層部 の慢心と楽観論は、パーレブ・ラインの崩壊とともに跡形も無く崩れ去ってしまったのである。

一方の戦場であるゴラン高原では、シリア軍の第5、第7、第9の3個歩兵師団が第1、第3戦車師団に支援されながら、10月6日の午後に第三次中東戦争の停 戦ラインを越えて、イスラエル第36機械化師団(第1歩兵旅団と第7、第188機甲旅団)の展開する陣地へと総攻撃を開始した。シリア軍の歩兵師団は戦車 各1個旅団を含むソ連製に編成をとっており、ゴラン高原に展開するシリア軍戦車の総数は1000輌以上に達していた。対するイスラエル軍の保有戦車数は 200輌にも満たない数しかなかった。シリア軍の総攻撃は、当初は混乱もあったがソ連製暗視装置を備えたシリア軍戦車は夜間も活発に行動し、7日夜にはイ スラエル軍第188機甲旅団長イツハク・ベン・シャオム大佐が乗車を撃破され戦死する。また、ゴラン高原北部でシリア軍の猛攻を受けていたアビクドル・ベ ンガル大佐の第7機甲旅団は、5倍近い敵戦車の猛攻を4日間に渡って持ちこたえたものの、10月9日の夜までには保有戦車のほぼ全てを失い、西へと敗走す る。

ゴラン高原南部での戦線突破に成功したシリア軍第1機甲旅 団長タウフィク・ジェハニ大佐は、7日の夜までに20キロ程前進し、ヨルダン川に架かるブノット・ヤコブ橋の手前3キロの地点まで進出した。この橋は、イ スラエル本土とゴラン高原を結ぶ重要な街道が通過する戦略的要衝であり、もしここをシリア軍に奪取されるとゴラン高原北部のイスラエル軍は補給を断たれて 壊滅する事は確実だった。ゴラン高原の周辺を管轄する北方軍司令官イツハク・ホフィ少将は、すぐに増援として2個機甲師団をゴラン高原へと派遣し、橋東方 のフスニヤ周辺では大規模な戦車戦が丘陵のあちこちで繰り広げられた。シリア軍は最新鋭のT62戦車を前面に立てて攻撃を続けようとしたが、両翼を包囲さ れた不利な態勢のなかで損害は急増し、10日午後までには停戦ラインの西に展開していたシリア軍戦車の殆どが撃破されてしまう。

10 月10日午後10時、イスラエル軍参謀本部内で作戦会議が開かれ、ゴラン高原における大規模な反撃の実施について議論が行なわれた。国防相ダヤンは第三次 中東戦争の時と同じく、あまりシリア領内に深入りするとソ連軍の直接介入を招く恐れがあるとして大規模な反抗作戦には消極的だったが、参謀総長エラザール は、少なくとも「パープル・ライン」から20キロ程奥地へ前線を押し上げるべきだと主張した。この線まで進出すれば、シリアの首都ダマスクスがイスラエル 軍の保有する175mm自走加農砲M107の射程内に入ることになり、シリア政府との交渉で優位に立てると判断されたからである。会議の終了後、ダヤンは メイア首相と会談し、反抗作戦についての決裁を仰いだ。メイア首相はシリア領内への進撃を決断し、翌11日の午前11時、イスラエル軍によるゴラン高原で の大規模な反抗作戦が開始された。いったんは指揮官の9割を失って壊滅状態に陥った第188機甲旅団には、全面的な再編成によって新たな兵員とイギリス製 のチーフテン戦車が割り当てられ、同旅団はゴラン高原に展開するイスラエル軍の先鋒を務めた。

イスラエル軍の反抗は、シリア軍とモロッコ、イラク、サウジアラビアから送り込まれた派遣軍の激しい抵抗に遭遇したが、戦線は徐々にダマスクスにむけて移動 していった。イスラエル空軍はすでにシリア軍防空網の弱点を発見して戦場上空の制空権を奪い返す事に成功しており、戦局はあきらかにイスラエル有利へと動 いていた。イスラエルにとってダマスクス占領で得られるメリットは何も無く、仮に占領したとしても周辺アラブ諸国からのより一層の敵意と、ソ連による軍事 介入を招くだけであり、マイナス面のほうが遥かに大きかった。事実ソ連のブレジネフ書記長は空挺部隊のダマスクスへの出撃準備を命じており、東地中海に展 開していたソ連海軍の各艦艇にも臨戦体制を執らせていた。最終的に、イスラエル軍はパープル・ラインから22キロ前進した地点で停止し、そこで防御陣地の 構築に移行していった。奇襲による開戦直後の数日間でイスラエル軍守備隊に大打撃を与えてゴラン高原を奪回し、そこで素早く停戦に持ち込むと言うシリア大 統領アサドの思惑は、イスラエル軍が予想外の速さで態勢を立て直した事からわずか6日間で潰えてしまった。

mirage3-mig17イスラエル軍がゴラン高原での反抗作戦を成功させていた頃、シナイ半島でもエジプト軍に対する大規模作戦の準備が進められていた。第134機甲師団を率いて シナイ半島の前線に到着したアリエル (アリク)シャロン少将は、元々同地域を管轄する南部軍集団の司令官を務めていたが、彼は第四次中東戦争が勃発する 以前からスエズ運河を西に渡河侵攻して敵の首都カイロに打撃を与えるという計画を暖めていた。そして、いったん軍籍から離れた後、戦争勃発と共に師団長へ と返り咲いたシャロンは、開戦4日目には早くもスエズ対岸への逆渡河作戦を首脳部に提案したが、時期尚早との理由で採用を見送られていた。しかし、エジプ ト軍がスエズ運河東岸で堅固な防衛線を敷設している現在、スエズ運河西岸への逆渡河作戦は、戦局打開に大きな効果を発揮するものと予想できた。こうして、 シャロンの提案に基づくスエズ運河逆渡河作戦「ストロングハート作戦」は、ダヤン国防相とエラザール参謀総長によって認可され、詳細な作戦計画が開始された。

シャロンが立案した「ストロングハート作戦」とは、まずス エズ運河中流の大ビター湖付近に展開するエジプト軍部隊を撃破した後、追撃戦へと移行して戦線を突破しスエズ運河まで進出する。次に、シャロンの第143 機甲師団とアブラハム・アダン少将の第162機甲師団を運河の西岸へと渡河させ、敵の背後に進出させる。そして、この2個師団で後方支援を断たれたスエズ 運河東岸のエジプト軍部隊を南部軍集団の残る2個師団で各個撃破するというものだった。この大胆な作戦計画には当然反発もあったが、軍務に復帰していた パーレブ中将が支持したことで実施が決定された。

10月14 日、大量のT62戦車を装備するエジプト軍戦車部隊が、大ビター湖北部のイスマイリア正面で東へ攻勢をかけた。これは、苦境に立たされたシリアの大統領ア サドの要請に基づいて、イスラエル軍の予備兵力をシナイ戦線に誘引する目的で急遽実施されたもので、両軍合わせて2000輌近い戦車が激突する大戦車戦が 繰り広げられたが、アメリカからの緊急軍事援助で対戦車ミサイル「TOW」を受領していたイスラエル軍対戦車部隊は、巧妙な対戦車戦術を編み出してエジプ ト軍戦車部隊の構成を防ぎきり、エジプト軍はこの戦闘で戦車246輌を失い西へと敗走する。この戦闘が転換点となって、シナイ半島の戦況はイスラエル軍側 へと大きく傾き、10月15日夕刻、エジプト軍の敗走を好機とみたシャロン少将の師団は、激戦を繰り広げた末に「中国農場」と呼ばれる台地上の要地を占領 する。同地占領後、シャロン少将の師団は大きな抵抗に遭うことも無くスエズ運河へと到達し、翌16日の午前1時35分頃に運河の対岸へと第一歩を記した 後、午前8時までには2個旅団からなる橋頭堡が西岸に確保された。勢いに乗るイスラエル軍は、17日夜にはアダン少将の機甲師団にも運河を渡河させて大ビ ター湖に西側を大きく迂回して南下させ、スエズ正面でシナイ半島に展開していたエジプト第3軍の背後を遮断した。

このような戦局を見て、当事者以外では最も脅威を抱いたクレムリンのソ連政府であった。このままでは中東及び地中海におけるソ連の影響低下はも脱がれがた く、あせった最高指導者であるプレジネフ書記長は、キッシンジャー米国務長官をモスクワに招き、停戦の原則についての会談を行なう一方、サダトとアサドに 早期の停戦受諾を打診した。緒戦の優位は完全に失われ、最早戦局挽回のチャンスは皆無である事を悟ったサダトは、クレムリンからの要請を聞き入れ、停戦を 受け入れる準備に取り掛かった。とりあえず、開戦語2日間で550両の戦車と50機以上の航空機を撃破したことで「イスラエル不敗神話の崩壊」と言う戦争 目的は達成されていた。

一方のイスラエルもまた、アメリカから の強い働きかけに押される形で停戦の受諾へと動き出した。イスラエル側にとっては不満の残る結末ではあったが、新しい兵器供給先であるアメリカの機嫌を損 ねる訳には行かず、実質的には国力の消耗も感化できないほどに低下していた。こうして、10月22日に開かれた国連の安全保障理事会において、関係諸国に 対する停戦決議(決議第338号)が採択され、キッシンジャー米国務長官を主役とする仲介工作によって第四次中東戦争は漸く終結へと向かったのである。

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中東戦争全史(7)

2月 4, 2009 by editonal  
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第三次中東戦争

スエズ運河の国有化に成功し、かつての宗主国イギリスとの戦争をも切り抜けたナセルは、自国のみならず第三世界のリーダーとしての高い名声も得た。この戦 争でナセルが発揮した政治手腕は、ナショナリズムに燃えるアラブ諸国の指導者達を刺激し、その結果ナセルとの協調を目指す政変がアラブの国々で続発した。 ガラリヤ湖の北でイスラエルと国境を接するシリアもまたそんなアラブの国の1つだった。

旧宗主国フランスの政治的支配から脱却して、1946年4月17日に独立を勝ち取ったシリアではまず、1949年3月に参謀総長のフスニ・エル・ザイム准将 (第一次世界大戦でシリア第1旅団を率いた人物)がクーデターを起こして軍事政権を樹立し、以後51年までに3回のクーデターが発生するなど混乱が続いた が、1954年にシシャクリ中佐率いる軍事政権が反政府デモによって倒され、民族的な革新派と保守派の連立政権が樹立されてからは、反欧米を標榜する政策 が国民の支持を得ていた。

シリアの指導部は当初、同じアラブ国家であるイラクとの関係を深めていた。しかし、1959年にイギリスを主対とする反ソ連の防共軍事同盟「バグダッド 条約」が成立し、イラクがこれに加わる姿勢を見せると。シリアはイラクとの関係を断ってエジプトに接近した。1957年8月、バース党と共産党を主体とす る新政権が始まると、シリアは一挙にソ連との関係を深め、同年10月には5000万ポンドにのぼる経済技術援助協定をソ連政府との間で締結する事に合意した。

アラブ世界の英雄であるナセルとの協調関係は、英仏両国への反感が根強いシリア国民からも熱狂的に支持された。シリアの首相サブリ・アサリは、57年8月に は早くも自国シリアとエジプトの合邦計画を明らかにしていたが、中東の有力国であるシリアとの完全な連合関係は、ナセルにとっても大いに魅力的な計画だっ た。そして1958年2月1日、エジプトとシリアは統合国家の樹立を宣言し新国家「統一アラブ共和国」を高らかに宣言したのである。新国家成立当初、エジ プトとシリアの前途は極めて明るいものであるかに見えた、統一アラブ共和国の成立を境にソ連の経済援助が大量に流れ込み、シリアのアスワンハイダムとも呼 ばれるユーフラテス川の大規模なダムと灌漑工事が間も無く開始された。新国家の初代大統領にはナセルが就任し、シリアのアサリは副大統領の地位を獲得し た。同年3月8日には、エジプトの影響下にあったアラビア半島南端のアラブ人王国イエメンが連合に加わり、統一アラブ共和国は「アラブ連合」へと発展した。

1967-six-day-war-afp-archiveしかし、第三世界の期待をになったこの連合も、長くは続か なかった。シリアのバース党首脳部は、新共和国の体制化で共産党勢力が排除された暁には、思い通りの政権を樹立できるものとの期待を抱いていたが、新共和 国のエジプト人高級官僚や軍人達は、シリアを属領のように見なして新たな政策を次々と発表していった。シリアが事実上エジプトに「併合」されたとの考えを 抱いた軍人や、ナセル流の社会主義的な政策に危機感を抱くシリアの実業家達は、この統合国家が決して自国の利益にならないことを痛感し、実力行使の準備を 始める。1961年9月28日、ダマスカスでハレディン少将を首謀者とする陸軍将校団がクーデターを敢行し、新政権の首相に就任したクズバリは翌日シリア 共和国の統一アラブ共和国からの脱退を宣言した。アラブ世界の理想を体現したかのように見えた統合国家「アラブ連合」だったが、隣接しない国家同士の連合 は上層部の面子を賭けた主導権争いと、民衆レベルでの経済格差による不平等間を生み出し、そして、対イスラエル戦略の大きな要となるはずであったこの同盟 関係は、わずか3年半で解消の憂き目を見たのである。

一 旦は成立したアラブ統一国家の解体という事件は、第三世界の英雄ナセルの国際的威信を大きく失墜させた。そして、エジプトは1971年8月まで「アラブ連 合共和国」の名称を国名に掲げ続けるが、ナセルの名声はこの分裂以後低下の一途をたどる。1961年にはイエメンのイスラム教指導者アハメドが脱退を宣言 し、アラブ連合は崩壊する。

翌62年9月26日、かつての友邦 国イエメンで反王制のグーでターが発生し、そのまま内戦へと突入すると、革命政権からの要請を受けてナセルはこの機会を名誉挽回のチャンスと考え全面介入 を決意する。しかし、山岳地帯に逃げ込んだ王党派は、ナセルの社会主義政策に批判的なサウジアラビアの武器援助を受けて頑強な抵抗を続ける。サルラル准将 率いる新政府軍と、アハメドの後継者モハメドの軍勢は一進一退の攻防を繰り返したが、泥沼化の様相を見せる内戦に介入する事はエジプトの経済は次第に疲弊 していき、本国でもイエメン派兵に対する批判の声が上がり始める。カイロから2000kmも離れたイエメンへの兵力の増派はまた、イスラエルに対するエジプト軍の弱体化を意味していた。

一方、中東アラブ諸国における バース党勢力はますます拡大していった。1963年2月8日にはイラクでバース党によるクーデターが成功し、3月8日にはシリアでもルーアイ・アタッシに 率いられたバース党の単独政権が樹立された。両国のバース党政権は再び、ナセルに統合国家の成立を提案するが、ナセルにとって前回の統合を失敗に追いやっ たバース党を信用せよというのが土台無理な話であった。同年4月17日エジプト、シリア、イラクの代表がカイロに集まり、統合国家再建に向けた話し合いを 行なったが、シリアではその3ヵ月後に反ナセルのバース党員アミン・エル・ハフィズが政権を奪取し、親エジプト派の党員は間も無く粛清された。この事件に より、3国指導部の会談は物別れに終わり、これ以降アラブ諸国間での友好的な国家統合が実現する事は無かった。アラブ諸国の混乱をよそに、イスラエル国防 軍は着々とその軍備を整えつつあった。とりわけ、今までの歩兵を中心とした用兵から、戦車を中核に据えたより機動的な作戦思想への転換であった。第二次中 東戦争で歩兵旅団を指揮したデヴィッド・エラザール大佐やイスラエル・タル大佐らは、戦車専門家による教育プログラムに参加し、最新の戦車用兵を身につけ た指揮官が続々とイスラエル軍の内部で誕生していった。

sixdaywar-jerusalem第二次 中東戦争における戦車戦の経験によれば、フランスの援助を受けて強化されたイスラエル軍の装備戦車が、敵であるアラブ諸国の戦車と比較しても遜色の無いこ とを証明していた。しかし、1960年代に入ってソ連製のT54およびT55戦車がアラブ諸国に供給され始めると、その自信も怪しいものとなってきた。そ こでイスラエルはまずアメリカに戦車の供給を要請したが満足な回答は得られなかった。一方イギリス政府は自国の保有するセンチュリオン戦車の一部を供給す る事で合意した。しかし、元々ヨーロッパでの使用を前提として開発された戦車だけに、苛酷な砂漠という環境ではラジエーターやエアクリーナーのトラブルが 頻発し、また、搭載するミーティア・ガソリン・エンジンの燃費の悪さによる行動距離の短さ、低出力による機動性のなさ、ガソリンエンジンの発火性の高さな どが指摘され、イスラエルの戦車兵はシャーマンに乗る事を希望する有様であった。しかし、1964年にエラザールの後任としてタル少将が機甲部隊司令に就 任すると、上級士官を集めて講義を行い、センチュリオンの構造的欠陥についての詳細な分析結果を説明した上で、それを解決するための改造法と訓練法を教示 していき、ソフト面での改善を図る。またセンチュリオンは、1967年にディーゼルエンジンに換装する事が決定された。最終的には各型計385輌のセン チュリオンが配備される。

同じ頃、フランスとイスラエルの両国 間で、105mm戦車砲の供給についての合意がなされる。この砲は当時フランスの新型主力戦車であったAMX-30用に開発されたCN105F1の短砲身 バージョンで、D1504とも呼ばれる。イスラエルは輸入したこの砲を老兵シャーマン戦車の車体に搭載してM51シャーマンを作り出した。エンジンは ディーゼルに換装され、M50Mk2と同じく足回りもサスペンションはHVSS方式、幅の広い履帯を装備した通称「I・シャーマン」はセンチュリオンと共 に次なるアラブ諸国との戦いで大きな威力を発揮することのなるのである。

第一次中東戦争以降、難民として周辺アラブ諸国に移住する事を余儀なくされたパレスチナアラブ人にとって、アラブ各国間における足並みの乱れは切実な問題で あった。また、彼ら自信の処遇もイスラエル建国宣言当時の義憤や同情心が薄れるにつれ、受け入れ先であるアラブ各国にとって「厄介なよそ者」として軽視さ れるようになってきた。もはやこれらの政治家に任せていたのでは事態の改善は望めないと考えた、とりわけ若い世代のパレスチナ人やアラブ人の間では、アラ ブ諸国に依存することなく、独自の方法で祖国パレスチナを奪回しようとする運動が次第に大きくなってきた。

1959 年、エジプトのカイロ大学で学んでいたパレスチナ人学生達の間で、1つの政治結社が設立された。結社の名は「ファタハ(アル・ファタ)」といい、パレスチ ナ解放運動のアラビア語での頭文字HATAFをアラブ式に右から読んだこの組織、リーダーとして先頭に立ったのが当時30歳だったヤセル・アラファトであ る。アラファトの本名はモハメッド・ラウフ・アラファト・アル=クドゥフ・アル・フセイニといい、後に世界中の新聞紙面を飾る事になる「ヤセル」という名 は、「のんき者」というアラビア語でのあだ名だった。彼自身の説明によればアラファトは1929年8月4日、エルサレム旧市街の「西の壁」に隣接する13 軒ほど並んだ石造りの集落の1つで誕生したという。父アブデル・ラウフは食品を扱う商人で、パレスチナのガザに住む地主の家生まれたが、母ザフワ・アブ・ サウドはエルサレムの名家の出身で、夫婦関係は悪化しており、アラファト誕生後は別居生活を送っていた。4歳の頃母と死別した彼と弟は、最初カイロにある 父の家で過ごしたあと、母方の叔父サリム・アブ・サウドに引き取られ、エルサレムにあるアブ・サウド家の屋敷で少年時代を送った。アブ・サウド家の親類に は、エルサレムの大ムフティとして君臨したハジ・アミン・アル・フセイニの下でイスラム法の裁判などを手掛けていたシェイク・ハッサンというムフティがお り、少年アラファトは叔父のサウドとシェイク・ハッサンの影響を受けながら、パレスチナのアラブ人としての民族的アイデンティティと、西欧諸国に対する反 植民地思想に傾倒するようになる。当時のイシラエルでは、流入を続けるユダヤ人と現地のアラブ人との間で日常的に暴力事件が発生しており、こうした事件は 少年アラファトの心にも大きな傷を刻み込んだ事は創造に難くない。そして、13歳までエルサレムで過ごした彼は、1942年に再びカイロの父の家に戻り、 そこで学業に専念した。

しかし、第2次世界大戦が終了して、パ レスチナに再び混乱の時代が訪れると、アラファトもまた、祖国パレスチナをユダヤ人から守るための戦いに身を投じる事になる。伝説的な指揮官アブドゥル・ カデルの下で、武器調達要員に任じられたアラファトは、札束をポケットに入れてカイロやアレクサンドリアに出かけては、武器弾薬を購入した。少年のような 小柄な体躯と、地元エジプト語のアクセントで話すエジプトは武器の売人からも可愛がられ、ある時にはドイツ軍のティーゲルI重戦車の残骸を25エジプトポ ンドで購入して、エジプト外務省の前で示威行動を行ったりしたという。

第 一次中東戦争が勃発すると、アラファトは義勇兵に志願してガザからエルサレムへと入り、そこで足首に敵の銃弾を受け負傷した。だが、停戦合意が成立すると アラファトは仲間のパレスチナ人と共にエジプト軍によって武装解除されてしまう。停戦と共にエジプトへと戻ったアラファトは、ファウド国立大学(後のカイ ロ大学)の工学部に入学し、そこでパレスチナ人学生同盟の会長を務めるなどの政治活動を行なう一方で、大学内で実施される軍事教練にも熱心に参加して、闘 士としての素養を磨き上げていった。その後、1957年にクウェートへと移住した彼は、間も無く建設会社を設立し、実業家として一応の成功を収めたもの の、祖国パレスチナを巡る状況が一向に好転の兆しを見せない事に苛立ちを募らせた。そして2年後の1959年、アラファトは建設事業で蓄えた豊富な資金を 基に、パレスチナ人学生を中心とする戦闘的な団体ファタハを設立したのである。

cenその頃、イスラエルとアラブ諸国との間では新たな問題が持ち上がっていた。1964年9月、シリアとヨルダンの抗議を無視して、イスラエルとシリア国境に位 置するガラリヤ湖からイスラエルが取水事業のための土木工事を始めたのである。ガラリヤ湖の水はヨルダン川を南下して死海へと流れ込むが、その途中ではユ ルダンの広い範囲を賄う水源として利用されており、イスラエルの取水事業が開始されればヨルダン川への水量が減少する上に塩分濃度も上昇してしまう。計画 を知ったアラブ諸国は、レバノンとシリア領内で川に堰を作る事でガラリヤ湖への流入量を減らし、シリアとレバノン領内に水が流れ込むように川筋を変えよう とした。これに対しイスラエルはアラブ側の土木工事を「事実上の戦争行為」と見なして堰の建設現場に砲爆撃を加え工事を妨害する。さらにセンチュリオン戦 車の実戦テストを兼ねシリアとの国境地帯に戦車部隊を投入し、ゴラン高原のシリア軍陣地に対する攻撃を繰り返した。イスラエルに対する利害が再び一致した アラブ各国は、1964年1月にカイロで第1回アラブ首脳会議を開き対イスラエル統一司令部を設置する事で合意する。そして、ナセルの支援を受けたパレス チナの指導者達は、この年の5月28日から6月2日にかけてヨルダン統治下の東エルサレムで第1回パレスチナ民族評議会(PNC)」を開催し、そこで「パ レスチナ解放機構(PLO)」の結成を宣言したのである。しかし、ナセルががPLOを設立した理由は、イスラエルに対するパレスチナ人の解放闘争を支持す るためではなかった。第二次中東戦争の完敗から、彼はイスラエルとの直接対決は可能な限り避けるべきとの結論を導き出していた。そして、反イスラエルを統 一目標に掲げる事でアラブ諸国の結束を固めつつ、パレスチナ人や強硬派軍人の過激な行動を抑制するガス抜き的な存在として、穏健な法律家のアーメド・エ ル・シュケイリを総裁とするPLOの設立に踏み切ったのである。実際、この会議で採択された「軍事決議」の中には、第二次中東戦争前後から結成されていた 各ゲリラ・テロ組織を統合・再建して、PLOの傘下に統一的な司令部を設置するとの条項が含まれていた。もしこれが実現したなら、パレスチナ人の独立武装 組織は如何なる場合においても、PLOの実質的な後見人であるナセルの承認なしには独自の行動を行なえなくなることを意味していた。

しかしアラファト率いるファタハは、このような決定に従うつもりは無く、1965年1月2日夜半、ファタハの軍事組織「アッシーファ」に所属する3名のパレ スチナ人がイスラエル領内に侵入し、導水路に爆薬を仕掛けた。爆発物はイスラエル軍の警備兵に発見されて直ちに雷管が抜かれ、導水路の破壊は回避された が、アラブの新聞はファタハの発行した「爆破成功」の公報をそのまま掲載し、ファタハの名をアラブ世界に大きく知らしめる事になる。これ以降、ファタハは イスラエル領内で武装闘争を展開し、1965年だけで35件の破壊活動を行なった。主要な訓練及び兵站基地をシリアのダマスカスに設立したファタハは、ソ 連、東欧、中国などの反西側勢力から各種の武器を買い入れ、アッシーファの戦闘能力を強化していった。

1966 年2月23日、シリアでクーデターが発生し、軍の将校とバース党の連合政権が樹立されると新政権はファタハの活動を全面支援する事を発表し、シリアを拠点 としたアッシーファの実力行使はますます活発化していった。ファタハの活動を通じてアラファトが目指した目的は、極めて単純なものだった。テロ活動でイス ラエルを挑発し、大規模な報復活動を引き起こせばアラブ諸国は嫌でも対イスラエルの全面戦争に参加せざるを得なくなるだろう。このようなファタハの危険な 実力行使は当然の事ながらアラブ諸国の反発を浴びる事となり、エジプトは勿論のことレバノンやヨルダンでもファタハに対する取締りが強化された。特にヨル ダンでは、イスラエルとの関係悪化に伴い反イスラエルを反王制に結びつける運動が高まりを見せていた。こうした国内の不穏分子を押さえるためにアメリカや サウジアラビアとの関係を深め親西側の姿勢を強める一方、シリアとの国境を無許可で横断しようとした一軍の武装勢力に銃撃を加えるなどの武力行使を行なわ せたため、ヨルダンとシリアの関係は次第に悪化し始めた。

一方 のイスラエルでは、皮肉にもアラファトの思惑に沿った方向へと動き始める。イスラエルの首相レヴィ・エシュコルは「イスラエル領土内での破壊活動を教唆、 援助する国家は報復を免れない。」との警報を発した。1966年5月にイスラエルがファタハの武力闘争についての問題を国連安保理に提訴すると、アラファ トはシリアの全面的支持を受けながら来るべき開戦の日を待ち続けた。これら他の国々を巻き込んだこれら一連のテロ活動は、間も無く強烈なしっぺ返しとなっ てアラブ諸国にふりかかる事になる。

1867年の春、ファタハ の闘争に刺激されたシリアは改めて反イスラエルの姿勢を鮮明に打ち出し、ゴラン高原に展開した砲兵にイスラエル領婦負への砲撃を開始する。これに対しイス ラエルは4月7日、フランス製の戦闘機ミステールIVを投入して砲兵陣地を爆撃、要撃に来たシリア空軍のミグ戦闘機を撃墜し、シリアの首都ダマスカスで示 威飛行を敢行した。この事件でイスラエルとシリアの国境では緊張が高まり、休戦ラインを挟んで両群部隊が集結し始めた。一方エジプトでは、イスラエル軍の 11個旅団に及ぶ兵力がシリア国境に集結中であり、先制攻撃の準備中であるとの報告を情報部が提出した。しかし、ソ連経由のこの情報は全くの出鱈目であ り、エジプトとシリアの連合復活を望むソ連が、イシラエルとシリアの対立にエジプトを巻き込むためであったとも言われている。しかしナセルは慎重な態度を 崩さず、これがアラブ各国からの批判を招く事になる。アラブの盟主を自認するエジプトとナセルは世論に追い詰められ5月14日、シナイ半島に大兵力を進駐 させると同時に、半島に駐留する国連の監視団に即時撤兵を要求、国連はこれを受け入れ5月16日から18日の間に撤退を完了する。そして5月22日、ナセ ルは再度チラン海峡の封鎖を宣言する。5月30日にはヨルダンのフセイン国王がカイロを訪問し、エジプトとの相互防衛条約を調印、エジプトとシリア、ヨル ダンの間にも軍事同盟が結成され、イラク、クウェート、スーダン.アルジェリアなどのアラブ諸国も有事の際の派兵を約束した。

周囲を完全に包囲されたイスラエル国内では、もはや戦争回避は不可能とする危機感が広まりつつあった。シナイ半島北部の空軍基地エル・アリシュを飛び立った エジプト空軍Tu-16やIl-28といった爆撃機は15分以内で首都テルアビブ上空に到達する。そのような状況の中で国防相を兼任するエシュコル首相に 対する批判が高まり、世論の後押しによって前参謀総長のモシェ・ダヤンが親国防相として入閣すると、国内世論は一気に先制攻撃支持へと傾いた。

6月2日の朝、イスラエル政府は国防閣僚委員会と参謀本部の合同会議を開き、予防戦争の可能性について討議した。同日、イスラエル空軍のミラー ジュ?CJ(R)が国境周辺の偵察飛行を開始し、以後3日間にわたって、アラブ各国軍の兵力や展開位置などの情報を収集した。そして6月4日、イスラエル の閣議は軍事行動の全権を首相と国防相に一任するとの決定を下し、直ちに全軍に対する攻撃準備命令を発動した。

1967 年6月5日の午前7時54分、イスラエル空軍の大編隊が超低空飛行でレーダー網を掻い潜りながらエジプト、ヨルダン、シリア、イラク各国領内の空軍基地へ と殺到した。作戦立案ではドイツのポーランド侵攻“電撃”作戦を参考にしたとも言われるこの攻撃は完全な奇襲であり、この日の日暮れまでの1,000ソー ティーに渉る攻撃で、アラブ諸国は航空機300機以上、空港、レーダーサイトなどを失い、アラブ諸国の航空戦力は壊滅した。

イスラエル空軍の完全な奇襲とそれに続くイスラエル機甲部隊の進撃にエジプト軍は命令系統が錯綜し、シナイ半島のエジプト軍は満足な反撃も出来ないまま各個 撃破されていった。イスラエル軍はイシャヨウ・ガビッシュ准将隷下の2個機甲旅団と1個空挺旅団、若干の支援部隊からなる南部軍集団が地中海沿岸のラファ からエル・アリシュへと進撃し、その左隣にはアブラハム・ヨッフェ准将の2個機甲旅団がウムカテフからギディ峠へと続く街道を、そして猛将アリエル・シャ ロン准将隷下の師団は、ヨッフェの部隊と連帯しながらミトラ峠方面へと進撃し、南翼からの敵の反撃を完全に撃退する。これらの機甲師団は、エル・アリシュ 前面のジェラディやウムカテフなどの拠点で抵抗に遭遇したが、イスラエルは随伴する歩兵旅団の活躍や完全に握られた制空権の下での近接航空支援によって、 これらの陣地を一つ一つ着実に攻略していった。Iシャーマンやセンチュリオンなどの戦車の集中運用で効果を発揮したイスラエル軍に対し、エジプト軍は保有 するソ連製戦車の大部分をダックインさせてトーチカとして使用しており、T-34/85中戦車400輌、T55中戦車200輌、ИС-?重戦車50輌な ど、計900輌近い戦車のうち6〜700輌がイスラエル軍によって撃破または捕獲された。シナイ半島に展開していた約10万のエジプト軍は、総崩れとなっ てスエズ運河方面への敗走を重ね、それを追うイスラエル軍は6月7日にはスエズ運河の東岸に到達した。広大なシナイ半島は再びイスラエル軍の手に落ちたの である。

6月8日午後遅く、イスラエル海軍支援の為にパトロー ル中のミラージュ?CJ戦闘機2機がシナイ島エル・アリシュの北、地中海上に1隻の未確認船を発見、報告を受けた司令部は魚雷艇6隻を向かわせる。ミラー ジュは上空を旋回し国籍を確認しようとするも国旗などの識別マークは視認できず、機銃掃射を行なうが反撃は無かった。燃料が少なくなったきたミラージュは 帰投し、代わりにシュペルミステールが現場上空に到着、80mmロケット、ナパームで攻撃する。さらに魚雷艇1隻が砲撃と雷撃を加えた。このとき、イスラ エル空軍パイロットは艦籍番号を確認、司令部はようやくアメリカ海軍情報収集艦リバティである事を確認し、攻撃中止命令を出した。攻撃を加えた魚雷艇が一 転して救助を申し入れ、付近を飛行中であったシュペルフルロンも負傷者の収容を申し出たがリバティの艦長はこれを拒否し、大きな損害を受けながらもマルタ へと向かった。この誤射事件でで乗組員34名が死亡し171名の負傷者を出す惨事となってしまった。一方エジプトへの侵攻と同時に、ヨルダンとシリアに対 する攻撃も開始されていた。イスラエル軍最大の目標は第一次中東戦争で失ったエルサレム旧市街の奪取だった。旧市街にある「西の壁」には第一次中東戦争の 集結以後18年間、ユダヤ人の立ち入りが禁止されており、この聖地の奪回はイスラエルにとってアラブ軍の撃滅に勝るとも劣らないほど重要な作戦目標だっ た。

開戦初日の夜、エルサレムとテルアビブ間の街道上にある要 衝ラトルンを急襲して陥落させたイスラエル軍は、エルサレム突出部の北翼に攻撃を集中して、この地域のヨルダン軍部隊を東方へと退却させた。翌6日の朝ま でには、かつての報復テロの舞台となったハダッサー病院のあるスコーパス山にまで進出し、いよいよエルサレム旧市街東側奪回作戦の準備がすすめられた。6 月6日の朝、モルデハイ・グル大佐に率いられた第55空挺旅団は攻撃を開始したがヨルダンはこの地を死守するつもりは無く、散発的な抵抗が数ヶ所で繰り広 げられただけでユダヤ教徒にとって最も神聖な場所である第二神殿時代の「西の壁」、通称「嘆きの壁」はイスラエル側の手に落ち、勢いづいたイスラエル軍は その後も進撃を続け間も無くヨルダン川西岸の全地域をその支配下においた。一方、対シリア戦線の要であるゴラン高原では、戦争勃発前からシリア軍による越 境砲撃が続いており、ダヤンは当初天然の要害であるゴラン高原への攻撃を躊躇していた。しかし6月9日の未明に総攻撃が開始され、薄いシリア軍の戦線を難 なく突破したイスラエル軍は高原一帯を占領し、シリア政府は翌10日の午後6時を以って停戦の受諾を宣言した。

イ スラエル側が「6日間戦争」と呼び、アラブ側が「6月戦争」と呼称する第三次中東戦争の勝敗は、わずか6日間で決した。エジプト、シリア、ヨルダンの三国 はイスラエル軍の戦死者730人の20倍を越える15,000人の人的被害を出し、戦車や装甲車などの大量の兵器がまたしても奪取された。11月22日に は、国連安保理が「中東戦争解決に関する安保理決議第242号」を採択し、イスラエルが第三次中東戦争で獲得した領土からの撤退と、中東地域の予め承認さ れた境界内での平和的生存権の確認という二つの原則を紛争当事各国に対して要求したがアラブ各国とイスラエルの両者から拒否された。これは、アラブ側に とってはイスラエルにパレスチナ支配の既成事実を与えることになり、イスラエルにとっては念願であったエルサレム旧市街の支配権を放棄することであったか らである。

この戦争の結果、シナイ半島全域とヨルダン川西岸地 域がイスラエルに併合され、その国土は4倍以上に膨れ上がり、ヨルダン川源流のうちの一本もイスラエル支配地域に入った。そして、エルサレム旧市街の「嘆 きの壁」のすぐ脇に立っていたアラファトの出生地とされるアブ・サウド家所有の石造建物群は1968年にイスラエル軍によって取り壊され、その跡地周辺は 整地され礼拝のための広場になってしまった。アラブとイスラエルの全面対決による祖国パレスチナの解放というアラファトが抱いた夢は、イスラエル軍の強大 な軍事力によって木っ端微塵に打ち砕かれてしまったのである。

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中東戦争全史(6)

2月 4, 2009 by editonal  
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第二次中東戦争

第2次世界大戦から3年後の1948年にパレスチナで勃発した第一次中東戦争は、新興国家イスラエルの実質的勝利によって幕を閉じた。中東の旧統治国であ るイギリスやフランス、第二次世界大戦後の世界で二大超大国にのし上がったアメリカとソ連が、パレスチナ問題を会議する国連総会の場で見せたイスラエルへ の寛大な態度は、アラブ人に欧米への大きな不信感を植え付けるのに十分すぎる効果を及ぼし、かつての植民地支配に対する西欧文化圏への背景を怨念とした強 烈なナショナリズムが吹き荒れ始める。とりわけ、世界有数の戦略的要衝であるスエズ運河を擁するエジプトでは、第二次世界大戦末期に結成された「自由将校 団」と呼ばれる若き軍人達が自国の国際的な地位向上を目指した実力行使の準備を着々と水面下で進めていた。そして、この秘密結社の指導者として混迷するア ラブ世界の中で頭角を表したのがガマール・アブドゥル・ナセル陸軍中佐であった。

1918 年1月15日、郵便局員の息子として生まれたナセルは、幼い頃から反抗的で早熟な少年だったと言われている。12歳の時、アレキサンドリアの街頭で意味も よく解らぬままに反英デモに加わった彼は、警官隊に逮捕されて監獄へとぶち込まれた。その際、一緒に捕まった仲間が「青年エジプト党」という右翼政党の構 成員である事を知ったガマール少年は、釈放後直ぐ同党に入り、機関紙の原稿運びなどを行ないながら政治知識を身に付けていった。1937年、19歳となっ たナセルは陸軍士官学校へ入学する。翌38年に同校を卒業した彼はスーダンの駐留部隊に配属されたが、ここでフランス革命やドイツ統一などの書物を大量に 読み、政治的知識を深めていった。間も無く第2次世界大戦が勃発すると、彼はエジプト兵を率いてイギリス軍を支援し、エル・アラメインでは歩兵大隊長とし て参戦している。

長らくイギリスの植民地であったエジプトが名 目的な独立を勝ち取ったのは1922年で、独立国として国際連盟への加入こそ許されていたものの、実際には国家運営の主導権は駐エジプト英大使に握られて おり、イギリス軍はエジプト独立後も駐留を続けた。1942年2月、イギリス大使のキラーンは国王ファルークと面会し、ワフド党の親英派指導者ナハス・パ シャを首相に任命するよう、強い調子で申し渡した。ファルークがこれを拒絶すると、キラーンはイギリスの戦車部隊をアブディン宮殿の正面へと前進させ、そ の砲口を王宮へと向けさせた。抵抗の無益さを知ったファルークは、キラーンへの恭順の態度を示し、間も無くエジプトの新首相にパシャが就任する。この事件 は王室に対する大きな失望と屈辱感をエジプト国民に与え、国内でのファルークの人気は急落していった。国王に対する群集の不満が高まった理由は他に当時の エジプト経済が、総人口の0,5%の人間が国民所得の50%を独占するという不平等さがあり、国王ファールクを取り巻く王室幹部や政府高官には悪いうわさ が絶えなかった。実際、第二次世界大戦末期から第一次中東戦争までの数年間、エジプトの国政はキラーン大使夫人とナハス・パシャの妻、ファルークの母ナズ リという3人の女性によって支配されていた。1952年7月23日、ナセル中佐率いる自由将校団のメンバー300人がカイロで無血クーデターを成功させ た。自由将校団のメンバーの多くがファルーク国王を絞首刑にすべきだと言ったがナセルはこれを却下。三日後、第一次中東戦争の司令官の一人ムハンマド・ネ ギブ中将が、革命司令部総司令としてファルークに大尉を要求し、ファルークはヨットに宮廷女官多数を連れギリシャに亡命する。中東のアラブ諸国のみなら ず、後にアフリカ全土の旧植民地諸国へと民族自決の哲学を広める事になる「エジプト革命」の始まりである。

こうしてエジプトの実質的指導者になったナセルだが、祖国エジプトの抱える問題はあまりに多く大きかった。彼はまず土地所有の不平等を改称するため大規模な 土地改革を行ない、地主や貴族による不当な搾取から農民を開放する。続いて翌53年6月には王制を正式に廃止して、「エジプト共和国」の設立を宣言、ネギ ブ首相が臨時大統領に、ナセルが副首相兼内相に就任するが二人の協調体制は長く続かず、旧支配層との関係を強めていたネギブは、ナセルによる急進的な改革 を快く思わず1954年10月26日、ナセルを暗殺しようとするが失敗し、失脚する。「不死身の英雄」として国民の熱狂的支持を得たナセルはエジプト共和 国の初代大統領に就任し、強力な指導力を発揮していった。

ナセ ル大統領がとりわけ重視したのが旧宗主国であるイギリスの影響力からの脱却であった。当時、海上交通の要衝であるスエズ運河には約8万人のイギリス兵が駐 留しており、彼らを撤退させない限り親の主権国家とは成り得ないと考えたナセルは、大統領就任前の1954年10月19日イギリス政府との間で撤兵につい ての協定を締結し、1956年6月20日までにイギリスをスエズ運河から撤兵させることで合意にこぎつけた。運河そのものの支配権は依然としてスエズ運河 株式会社の大株主である英仏両国にあり、運河の自由航行を保証する1888年10月の国際協定は引き続き有効であるとの確認がなされていたので、撤兵はさ ほど大きなダメージではないとイギリスは考えていた。 しかし、イギリス軍がスエズに駐屯し続けることがエジプト軍の対外進出のブレーキになると考えたイスラエルは、この撤兵交渉を妨害すべくカイロのアメリカ 関連施設に放火するなどの破壊工作を開始する。

1959年2月 28日、ガザ地区のエジプト軍に対しイスラエル軍による大規模な攻撃が仕掛けられた。地中海沿岸に6km×45kmの細長い回廊上となっているガザ地区で は、この年の始め頃からエジプトで訓練を受けたパレスチナ難民のテログループ「フェダーイン」とそれに対抗するイスラエル軍第101特殊部隊(指揮官は後 にイスラエル首相となるアリエル・シャロン中佐)の間で散発的な銃撃戦が続いていた。この戦闘で37名のエジプト兵が死亡し、ナセルは停戦状態にあるとは いえイスラエル軍の脅威が尚エジプトにとって切実な問題である事を痛感する。そこでナセルは、アメリカをはじめとする西側諸国から信頼性の高い最新兵器を 購入して、軍の近代化を推し進めようとするが、米英仏の三国は中東への武器供与を制限する協定を楯にこれを却下する。追い詰められたナセルは、それまでの 反共姿勢を捨ててソ連に接近し、チェコスロバキア経由での通商協定という名目で大量のソ連製兵器の獲得に成功する。Mig15戦闘機200機をはじめ、 T34/85中戦車200輌、ИС-?重戦車100輌、自走砲100輌、火砲数百門、駆逐艦2隻、潜水艦6隻など膨大な数のソ連製兵器が運び込まれ、中東 諸国の軍事バランスを一変させるとともに欧米諸国に大きな衝撃を与える事になった。初期にはイスラエル支持を表明していたソ連だったが、国内のユダヤ人が 民族運動を行なったのをきっかけにアラブ支持へと動いていた。このことは当然アメリカを刺激させ、イギリスもまた苦々しく思っていた。第一次中東戦争後の アラブ各国はそれぞれの国内事情に忙殺されて、統一的な反イスラエル戦線を構築出来ないでいたが、1955年頃からナセルを中心に各国首脳の交流が活発化 し、翌56年4月にはエジプト、サウジアラビア、イエメンの3カ国が軍事協定を調印し、5月にはエジプトとシリア、レバノン、ヨルダン各国との間で相互軍 事条約が調印された。もし、ソ連からの軍事的支援を受けたナセルがアラブの盟主として周辺アラブ諸国に働きかけたなら、中東のアラブ諸国が次々とソ連に近 づいていく事は容易に想像できた。英米両国はそのような事態の進展を座視しているつもりは毛頭無かった。

1956 年7月19日、アメリカのダレス国務長官はエジプト政府に対し、アスワンハイダム建設に対する資金援助を当面の間見送ると通告。翌日、イギリス政府と世界 銀行も同様の声明をエジプトに伝えた。約10億ドルと見られていた建設費のうち米英両国と世界銀行からの借款に頼る事になっていたが、このような政治的圧 力に対しナセルは思い切った行動に打って出た。

1956年7月 26日、アレクサンドリアで開催された第4回革命記念式典に出席したナセルは会場に集まった聴衆に対し、スエズ運河の国有化によって得られる収入をアスワ ンハイダムの建設費に充てると宣言する。同日の夕刻、エジプト政府は英仏両国が大株主を務める国際スエズ運河株式会社を接収して、全資産を凍結する法案を 可決する。周辺アラブ諸国の首脳は挙ってナセルに祝電を送った。しかし、この情報を聞いて英仏の両国政府は激怒する。中東の産油国から西欧諸国へ石油を輸 送するタンカーの7割が通過する大動脈を、第3世界の英雄ナセルの手に握られてしまったのである。

地中海と紅海を結ぶスエズ運河は、紀元前521年にペルシャの王ダレイオス1世によって最初の運河が建設される。その後の戦乱によって荒廃したが、1854 年にフランスが中心となってスエズ運河再建の計画が立案され、1858年にはフランスとエジプト双方の代表者を株主とする「国際スエズ運河株式会社」が設 立され以後99年にわたって運河の経営を管理し、その後はエジプトに移管するという契約が交された。翌年に工事が始まり1869年、フランスが中心となっ て10年の歳月をかけて全長160kmの運河が完成した。しかし、エジプトを植民地として支配していたイギリスは1875年にエジプト川が保有していた株 式を強引に買い上げてしまう。これにより運河の莫大な通行料はすべて英仏両国に流れ込み、エジプトには何の利益も落とさなくなっていた。イギリス政府は、 翌年に迫った国際スエズ株式会社の契約満期を控えて、運河そのものを国際的機関の管理に置くという政治工作を始めたところであった。その矢先に発表された ナセルによる国有化宣言は英仏両国の目論見を打ち砕く結果となってしまった。最早外交交渉で事態を解決する手段は無きに等しく、英仏両国は直ちに軍事的な 奪回手段を模索し始める。しかし、スエズ駐留の英軍は1ヶ月前に撤退しており、攻撃作戦は進行拠点の選択から始めなくてはならず、困惑する英仏両国に協力 を申し出る国があった。イスラエルである。

イスラエルは、ソ連 との軍事的関係を深めるエジプトに対抗するため、数年前からフランス製に武器を大量に購入し、軍備の強化を図っていた。1955年9月、ナセルはチラン海 峡の封鎖を宣言した。この海峡はアカバ湾にある港湾都市エイラートから紅海を経てインド洋に通じており、イランからの石油の輸入がこの処置によってストッ プするということであり、イスラエルとしては到底座視はできる問題ではなかった。スエズ運河の支配権を取り戻したい英仏両国、チラン海峡の航行を確保した いイスラエルという3者の利害は一致し1956年10月24日、イスラエルと英仏両国の代表者は最終的な侵攻の打ち合わせを行ない、次のような「筋書き」 を練り上げた。

まず10月29日にイスラエル軍が国境を越えて エジプト領内に侵入する。次に、英仏両国がイスラエルとエジプト両国に即時停戦を求める声明を発表し、同時にスエズ運河の安全保障という名目で英仏軍を運 河地帯に進駐させることを申し入れる。そして、10月30日の夕刻に英仏政府が期限12時間の停戦への最後通牒をエジプト、イスラエル両国に送付し、イス ラエル軍がこの声明を入れて運河の当方16kmの地点で停止した後、英仏連合軍が翌31日にポートサイドへと上陸しスエズ運河一帯を占領する。このような 手順を踏んだ上であれば、英仏とも国際社会から「侵略国」の烙印を押される事は避けられるはずであった。英仏両国は早速地中海のマルタ島とキプロス島、北 アフリカのアルジェリアなどに陸海軍?軍を派遣し、軍事介入に向けた準備を開始する。スエズ運河の奪回を目指す侵攻部隊は英国陸軍のキートル大将を指揮官 とし、イギリス陸軍第3歩兵師団と混成機械化師団、同独立第16空挺旅団、第3海兵旅団、フランス陸軍第7機械化師団、同第10空挺旅団から成り、総兵力 は10万人に達していた。

フランスによってイスラエルに運び込 まれた兵器はAMX-13軽戦車250輌、同車両に搭載されている75mm戦車砲CN75-50など。イスラエルはこの砲をM4シャーマン中戦車に搭載す るよう改修し、M50シャーマン中戦車を作り上げる。またHVSS方式のサスペンションと幅に広い履帯を持ち、エンジンをディーゼルに換装して機動性を高 めた改良型が作られ、こちらはM50Mk.2と呼ばれる。これらの戦車は、後に中東最強の機甲部隊を持つようになるイスラエルの布石となる。

1959 年10月29日の夕刻、イスラエル軍第202空挺旅団の1個大隊がシナイ半島の要衝ミトラ峠付近に降下し、ほぼ時を同じくしてAMX13軽戦車を装備した 同旅団の空挺戦車部隊がエジプト軍陣地への攻撃を開始した。イスラエルが「シナイ戦争」エジプトが「スエズ戦争」と呼ぶ、第二次中東戦争(スエズ動乱)の 幕開けである。半島の大部分は遊牧民の集落すらない不毛の岩山と砂漠地帯で、半島を東西に横断するルートはガザからエル・アリシュを経てスエズ運河沿いの える・カンタラへ向かうルート、二つ目は「イスマイリア道」と呼ばれ、ベェルシェバからウムカテフ、ダイカ峠を通って運河西岸のイスマリアへ向かうルー ト、3つ目の「ギディ峠道」はイスマイリア道からニザナで分岐して南へ進み、ギディ峠を通ってスエズ運河の小ビター湖へと向かうルート、最後の「ミトラ峠 道」はナクールを出発して標高1000m級の山々の間を縫いながらミトラ峠を経て、スエズの町に通じるルートの4つに限定されていた。30日にはイスラエ ル軍の攻勢は本格化し、第4、第10歩兵旅団と第37機甲旅団が半島中央のイスマイリア道を通ってエジプト領へ進撃した。半島の北部では、11月1日に第 1、第11歩兵旅団と第27機甲旅団がガザから地中海沿いに進撃し、南部では第9歩兵旅団がアカバ湾のシャルムエルシェイクを目指して南下していた。ミト ラ峠確保の任を受け持つ第202空挺旅団は、ガザ地区でパレスチナのアラブ人ゲリラへの報復任務を行なっていた第101特殊部隊を基幹に編成された部隊 で、指揮官アリエル・シャロン大佐は独断で峠付近の攻撃を行なわせたために空挺部隊の昇平が大損害を受け、参謀総長モシェ・ダヤンを激怒させる。が、作戦 は成功し峠以東の道路は完全にイスラエル側の支配下へと入った。ウリ・ベン・アリ大佐に率いられた第7機甲旅団と、ハイム・パーレブ大佐の率いる第27機 甲旅団もまた、弱体なエジプト軍の守備隊を次々と撃破し半島北部の街道を西に向かって進撃していた。

機甲部隊が進撃している後方では、孤立したエジプト軍陣地に対する歩兵部隊の攻撃が続いていた。1個大隊分の戦車しか持たないイスラエル軍第37機械化旅団 (サミュエル・ゴリンダ大佐)は、歩兵による攻撃の支援兵力としてウムカテフの攻撃に投入されたが、サミ・ヤッサ大佐指揮下のエジプト軍第6歩兵旅団の抵 抗は熾烈で、ハーフトラックで陣頭指揮を執っていたゴリンダ大佐は戦死する。結局この方面では、エジプト軍司令官アリ・アミール少将によって戦線の放棄が 命令される11月2日の夜までこの地を保持する。しかし、その補給戦は既にイスラエル軍機甲部隊によって寸断されており、長期の抵抗は絶望的であった。英 仏両国は計画通り調停者然とした振る舞いでイスラエルとエジプト双方に対し「スエズ運河の両岸から16kmの距離から撤兵させない限り武力を持って運河の 通行を確保する。」との最後通牒を突きつける。この時点でのイスラエル軍の進出線は、機甲部隊の先遣部隊を除きスエズ運河より遥か東方にあり、このような 最後通牒をナセルが受託する訳も無く、3国の描くシナリオに事態は進展していた。

10 月31日の午後7時、英仏両国の攻撃機がキプロス、マルタの航空基地から飛び立ち、エジプト各地の空軍基地に対し爆撃を開始した。これに対しナセルは、約 50隻の船舶を運河の水路内に自沈させタンカーの航行を不可能にする。エジプト国民は、自国の財産であるスエズ運河を再びイギリスとフランスが強奪しよう とする姿を見て両国との対決姿勢をより一層強固なものとし、エジプト国内のナセル人気は絶対的なものとなった。しかし、英仏両国が軍事行動を開始した初日 から両国政府は思いもよらない強い反発に遭遇する事になる。アメリカ大統領ドワイド・デイビット・アイゼンハワーである。英首相イーデンの読みでは、11 月初旬に大統領選挙を控え、「ソ連の支援を受ける民族主義者との戦い」であるこの戦いにアメリカが反対する訳は無いと考えていた。

アメリカの目はこの当時1956年2月のフルシチョフによる「スターリン批判」に端を発し、1959年10月23日に起ったハンガリー動乱に向いており、ソ 連の影響下からの脱却を目指すデモ隊をソ連は本国から戦車部隊を投入してこれを鎮圧、数千の死者と20万人に及ぶ亡命者を出したこの事件はスエズ運河への 侵攻作戦によってインパクトが大きく弱められていたのを苦々しく思っていたのである。また、在米ユダヤ人は伝統的に民主党支持であり、アイゼンハワーは共 和党出身で、ノルマンディー上陸作戦を指揮しヨーロッパ開放の立役者でもある彼の人気は非常に高く、当時600万人いたと言われているユダヤ人の票を充て にしなくても良かった。

11月5日の朝、英仏連合軍の空挺部隊 がポートサイドとポートファハドに降下し、翌6日には主力部隊がナイル川の三角州に上陸を開始したが、スエズ運河を取り巻く国際的状況はすでに英仏不利へ と傾いていた。ソ連の反発は予想できたものの、事後承諾を期待していたアメリカまでもが反対を表明した事でイギリス国内でもこの軍事行動に反対する世論が 強まり、英仏両国は地上部隊が上陸を開始した11月6日、4日前に国連で採択された停戦決議案の受諾を宣言し、スエズ運河での侵攻作戦を中止したのであ る。シナイ半島のほぼ全域を支配下においたイスラエル軍もまた、11月8日には国連決議を受け入れエジプトとの停戦に合意する。国連が派遣した緊急軍 (UNEF)と入れ替わりに、英仏両国は12月12日までに撤兵を完了し、イスラエル軍も翌年3月8日には全占領地から兵力を撤収させた。

エジプトがこの戦争で失った物は大きく、人的被害だけでも戦死者3000人以上、負傷者7000人以上、捕虜4000人以上と膨大な数になり、せっかくソ連 から導入した近代兵器もそのほとんどを失ったしまったが、スエズ運河を国民が一致団結して守り抜いたという意味においては大きな政治的勝利であり、この戦 争で大統領ナセルの威信はより一層強固なものとなった。一方のイスラエルは戦死者100人以上、負傷者700人と引き換えに膨大なソ連製兵器と軍需物資を 手に入れただけではなく、これらの兵器とイスラエル軍の装備兵器が戦えばどうなるかという豊富な実戦データを収集する事が出来た。またこの戦争を境に、イ スラエル軍上層部の戦車に対する認識は大きく変化し、それまでは戦車の効用に懐疑的だった参謀総長モシェ・ダヤンですら、シナイ作戦機甲旅団の鮮やかな進 撃(電撃戦と呼んでも差し支えなかろう)を目の当たりにして考えを180度改め、これより熱心な戦車用兵の推進者となる。また、チラン海峡のシャルム・エ ル・シェイクが国連緊急軍の管理化に置かれた事で、エジプトがチラン海峡を封鎖する可能性がほぼ無くなった。英仏両国の介入が完全な失敗に終わったとはい え所定の目標を達成したという意味においてこの戦争はイスラエルの勝利に終わったとも言える。

前述の二つの国とは対照的に英仏にとってこの戦争で失った物はあまりに大きく、両国の国際的地位は大きく低下してしまった。とりわけアラブ諸国に対する影響 力は武力によるスエズ運河奪還が挫折した事で完全に失ってしまったといっても良いであろう。スエズ運河を閉塞していた沈船は国連の主導で間も無く撤去さ れ、1957年3月には再び運河の航行が可能となった。アラビア語で「カナト・アス・スーワイス」と呼ばれるこの運河の支配権は、完全にエジプトの物と なった。

第二次中東戦争は、地球上を支配する大国が英仏から完全に米ソへと移行したことを如実に物語る出来事でもあった。これ以降、中東を巡っての情勢は米ソ二大超大国の思惑に大きく翻弄さ手行く事になるのである。

中東戦争全史(5)<<中東戦争全史(6)>>中東戦争全史(7)

中東戦争全史(5)

2月 4, 2009 by editonal  
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第一次中東戦争

1948年に入ると、パレスチナの闘争は激化し、道路を走るバスやトラック、市場や屋台の店先などで突然爆弾が爆発し、多数の市民が犠牲となった。パレス チナに住む大勢のアラブ人がヨルダンやシリアなどの隣国へ脱出した。世に言う「パレスチナ難民」である。こうした難民の受け入れ先の国では同情と義憤の感 情からパレスチナへの軍事介入を求める声が高まり、48年1月にシリアとトランスヨルダンから義勇兵が派遣される。

一方パレスチナの分割決議によって国家創立への第一歩を踏み出したユダヤ人であったが、本格的な衝突に備えるべく軍備の増強に邁進する。17〜22歳までの パレスチナ在住ユダヤ人に招集がかけられ、第2次世界大戦に従事したユダヤ人青年にも参加を呼びかけ、約7万5千人の兵士を動員することに成功する。装備 する兵器も始めこそ不足していたが、渡航禁止前にドイツから逃げ出したユダヤ人の持ち出した物資や海外ユダヤ資本を使って大戦の余剰兵器(ドイツ製が多 かった)を買い漁り、装備を整えていった。

パレスチナ紛争での アラブ陣営として、重要な役割を果たす事になる「アラブ連盟」が周辺のアラブ諸国間で結成されたのは1945年3月22日であった。カイロでの連盟調印式 に出席したエジプト、トランスヨルダン、シリア、レバノン、イラク、サウジアラビアの6カ国は3年後の1948年2月9日にカイロで会議を開き、パレスチ ナでのユダヤ人国家設立を断固阻止する決議を出し、各国が義勇兵を送り込む事を決定する。

パ レスチナでのアラブ人勢力として、戦後に亡命先からレバノンへと帰還したフセイニとその甥が率いる「アラブ救世軍」があり、規模は2000人程。二人の甥 は第二次世界大戦中にドイツで訓練を受けており、英雄的な指揮官として兵の信頼が厚かった。北部ガラリア地方には反英闘争の指揮官として名を馳せたファウ ジ・アル・カウクジが、アラブ連盟の後援を受け主にシリア出身者で構成された義勇兵的な性格の強い「アラブ解放軍」を指揮し、武装闘争を開始。そして、ア ラブ人勢力内では質量ともに最強を誇る英国人ジョン・ベイコット・グラブ中将率いる「アラブ軍団」があった。この部隊はトランスヨルダンに本拠地があり、 イギリス人将校団によって鍛えられたベトウィンの精鋭部隊で兵員数は1万を超え、歩兵3個旅団、戦車数個大隊、砲兵部隊を備えたアラブ諸国随一の近代部隊 であった。

このように、アラブ陣営は兵員数や武器、装備の面で ユダヤ人側を大きく上回っており、本格的な専用が始まれば鎧袖一触だと思われていたが、アラブ人勢力最大の弱点は実戦経験を持つ指揮官がユダヤ人側に比べ 圧倒的に少ないことで、ユダヤ人側には第二次世界大戦時にユダヤ旅団や自由ポーランド軍、その他連合国側に立って参戦し、豊富な経験を積んだ兵士が多数在 籍し、その数を増しつつあった。また、1920年代から続いていたタカ派のフセイニとハト派のナシャシビの対立が顕在化し、アラブ人側の結束を乱す一因と なり各組織が別々に反ユダヤ闘争を行う結果となった。

1948 年3月、パレスチナのユダヤ人居住区を統括する臨時政府「ユダヤ国民評議会」がテルアビブで誕生し、その「正規軍」であるハガナーが各地で組織的な軍事行 動を開始した。対するアラブ陣営は各国からの義勇兵を含む部隊がパレスチナのアラブ人居住区への進駐を開始し、本格的な攻勢の準備に取り掛かった。アブ ドゥル・カデル率いるアラブ救世軍は、聖地エルサレムのユダヤ人居住区を包囲し入ってくるユダヤ側輸送部隊を襲撃し、弾薬や食料を満載したトラックのほと んどを撃破すると、ユダヤ人側は次第に劣勢に立たされる。追い詰められたハガナー司令部は、戦局を挽回させるべく「D(ダレッド)作戦」を立案する。これ は、イギリス軍撤退によって生じる一時的な軍事的真空状態を利用し、パレスチナ領内のアラブ人社会を根絶、ユダヤ人国家成立の既成事実を作り出すというも のであった。この作戦の第1段階として、ユダヤ側は1948年4月に「ナハション作戦」を開始した。この作戦は、テルアビブからエルサレムへと続く回廊を 押さえ、アラブ人領土を分断すると同時にエルサレムの長期自給体勢を確立が目標であった。この作戦は最終的には失敗に終わったが、カステルの丘を巡る攻防 においてアラブ人指導者でフセイニの甥にあたるアブドゥル・カデルを戦死させるなどアラブ側の今後の戦略に大きな損失をもたらした。

そ して4月9日から翌10日にかけての夜、イスラエル建国史上最大の汚点といわれる「デイル・ヤシーン事件」が発生する。エルサレムの包囲打開と輸送車両に 対するアラブ人側の襲撃を阻止するとの名目で、イルグンとシュテルンの合同部隊がアラブ人の村デイル・ヤシーンに住む老若男女254人を虐殺した事件で、 実際にはアラブ側の軍事拠点など無くベングリオンはトランスヨルダンのアブドゥッラー国王に謝罪の書簡を送る結果となる。しかし、この事件以降一般のアラ ブ系住民の間でユダヤ人に対する恐怖が蔓延し、約10万人とも言われるアラブ人難民がパレスチナを脱出する。アラブ側は報復としてエルサレム郊外にあった ユダヤ系の「ハダッサー病院」へと向かう医療関係者の車列を襲撃し、医師や看護婦など77人を殺害したが、難民の流出を止める事は出来なかった。結果的に この虐殺事件は、国際社会の非難を浴びながらではあるが「パレスチナのアラブ人社会の破壊と住民の追放」というダレッド作戦の目標達成において大きな役割 を果たす事になる。

1948年5月14日、26年間にわたるイ ギリスのパレスチナ信託統治時代が終了するこの日の夕刻、テルアビブの博物館で開催されたユダヤ国民評議会は「ユダヤ人国家」の著者ヘルツェルの肖像が掲 げられた部屋で、国連のパレスチナ分割案に基づくユダヤ人地区を中心とする「イスラエル国」の樹立を内外に宣言する。宣言の4時間後、アメリカのトルーマ ン大統領はイスラエル独立を承認する声明を発表、4日後の5月18日には、今度はソ連がイスラエルの独立を承認し。スターリンの勢力下にある東欧諸国も追 認する。ディアスポラから1900年余り経ち、ようやく手に入れたユダヤ人国家イスラエルだったが、その前途には暗雲が立ち込めていた。

一方的なイスラエル独立を承認しない周辺5カ国(エジプト、シリア、トランスヨルダン、イラク、レバノン)は、その日のうちに宣戦を布告、翌15日には国境を超えて3方から侵攻を開始した。パレスチナの内戦は、ついに国家間の戦争へと発展する。

m51sharman2グラブ中将率いるアラブ軍団の精鋭2個旅団は、ヨルダン川に架かるアレンビー橋を越えてパレスチナに進出し、5月17日にパレスチナを眼下に見下ろすオリー ブ山まで前進する。同日、アラブ軍団の1個大隊がラトルンにある警察砦を占領しテルアビブからエルサレムへ通じる回廊を遮断。翌18日、アラブ軍団の1個 中隊がオリーブ山を下りエルサレム旧市街(アラブ人居住区)へと突入する。同日エルサレム新市街(ユダヤ人居住区)へ1万発に及ぶ集中砲撃を加え攻略を目 指すも突入した装甲車がイギリス製の対戦車兵器PIATに阻まれ頓挫、攻撃目標を旧市街へとシフトするハガナーとイルグン300名が守備するエルサレム旧 市街への総攻撃が開始されたのは5月20日のことであった。補給を断たれたユダヤ人側は頑強に抵抗を続けるも、これ以上犠牲者を増やすべきではないという ユダヤ教のラビによる説得を受け5月28日降伏する。

一方交通 の要衝ラトルンを巡る攻防で、孤立したエルサレムへの回廊を打通するべく5月23日に最初の奪回作戦が行なわれたが失敗、30日夜半にはシャロモ・シャミ ル大佐率いるアメリカ製M3ハーフトラックを装備する第7機械化旅団が投入され、再度奪回を試みるが失敗する。この知らせを聞いたベングリオンは、ラトル ン奪回をエルサレム方面における最重要課題と位置付け、元アメリカ陸軍のダビッド・マーカス大佐を現地指揮官として送り込んだ。マーカスはエルサレムへと 通じる迂回路の解説をベングリオンに上申し、これが受理されると早速ラトルン南方の峡谷を走るルート(通称ビルマ・ルート)を、ブルドーザーが前線に届い た6月4日より切り開く。7日にはほぼ開通し10日にはアメリカ人記者の便乗する輸送隊がテルアビブからエルサレムへと入った。このルートの開設によりエ ルサレム新市街に待望の補給物資が届き、長期持久に向けた体勢を整える事が出来た。

5月15日に国境を越えてパレスチナに進撃するアハメド・アリ・エルマワウィ少将率いるエジプト派遣軍の陣容は、歩兵5個大隊からなる第3師団を中心に英国 製のクルセイダー巡航戦車やマチルダ?歩兵戦車を装備する戦車隊と機関銃中隊、砲兵1個連帯を擁する合計1万もの大兵力だった。エジプト軍は国境付近のイ スラエル防衛線を難なく突破し、ガザ、マジダル、ベエルシェバへと進撃を続けた。しかし、5月19日にヤッド・モルデハイの攻略を開始したエジプト軍は、 ここで守備隊の頑強な抵抗に合う。5日後の5月24日にようやく町を陥落させるが、この5日間の浪費が後々エジプト軍に大きな疫災となって降りかかる。

5月29日、イスラエル軍パイロットの操縦するアビアS199戦闘機(チェコ製、Bf109G-6後期型に相当)4機がエジプト軍に襲いかかる。この空襲自 体は、爆弾の不発やなどが原因で戦果を上げる事が出来ず、1機が対空砲により撃墜され、1機が機体の故障で不時着したものの、エジプト軍に与えた心理的効 果は計り知れない物があった。この戦闘機は、ベングリオンの密使エフード・アブリエルがチェコスロバキアで買い求めた数々の近代兵器のうちの1つである。 数機の輸送機と小型のスポーツ機などしか装備していなかったイスラエルにとって、スピットファイIX15機を擁するエジプト軍への対抗上空軍戦力の拡充は 急務であり、アブリエルはチェコスロバキアでパイロットに不評であるにも関わらず11機の購入契約を結び急遽空輸され第101飛行隊に配属される。最終的 には25機のS199が配備された。

アブリエルや他の密使はこ れ以外にも第2次世界大戦中の中古機を各地で入手し、戦場へと送り込んだ。スーパーマリン・スピットファイアIX50機、ノースアメリカンP-51Dムス タング4機、デ・ハビラント・モスキート9機、ボーイングB17Gフライング・フォートレス3機などが続々とイスラエル軍の航空隊に編入されていった。ま た、イギリスから映画撮影に使うと偽って持ち出されたブリストル・ボーファイター5機が、コルシカ島を経由して自力でイスラエルへ飛行してきた。

空襲による被害が皆無だったとはいえ、続々とパレスチナ上空に飛来する軍用機の存在は、エジプト兵の戦意を大きく揺るがせ、イスラエルの潜在的な軍事力に不安を抱いたエジプト軍はそれ以上の北上を諦め、塹壕を構築して防御体勢への移行を余儀なくされた。

一方北部のガラリア湖周辺では、5月18日にフランス製のルノー軽戦車を装備するシリア軍第1旅団(指揮官フスニ・エル・ザイム准将)の攻撃が開始された。 有効な対戦車兵器を持たないイスラエル軍は当初苦戦を強いられたが、5月20日に増援として到着した4門のフランス製M1906山砲(口径65mm)が射 撃を開始するとシリア軍の戦車兵はパニックに陥って退却する。

イスラエル軍は重火器の陸揚げと組み立てが進むにつれて各地で小規模な反撃を試み、一部ではアラブ軍侵攻兵力の撃退に成功するも、アラブ側が交通の要所ラト ルンとエルサレム旧市街を保持し続けているのを始め、全般的には依然としてアラブ側有利な状況で推移していた。イスラエルのユダヤ人たちは、消耗戦の先に ある悲惨な結末を思い描き、祖国再興は幻想だったかと嘆いたが、救いの手が差し伸べられる。国連安保理事会が再びパレスチナ問題を議題として取り上げ、5 月22日にパレスチナ全域での軍事行動の即刻停止を呼びかける決議を行なった結果、5月29日には4週間の休戦と、国連によるパレスチナ停戦監視機構の設 置を決める国連決議第50号を議決したのである。こうした国連の仲介により6月11日から7月8日までの4週間にわたる第1次の休戦がアラブ・イスラエル の両軍の間で合意された。イスラエルはこの4週間で戦力の拡充と戦局の挽回を図ることになる。

ベ ングリオンは、アラブとの戦争をより効果的に遂行するため、国内武装勢力の指揮系統を一本化することを決意する。臨時政府が5月28日に発令した政令第4 号によってイスラエル国防軍(IDF)が正式に創立され、イルグンやシュテルンの兵士をもその指揮下に編入する事が決定した。しかし、この決定は紛争開始 以来一貫して独自で武力闘争を続けていたイルグンは容易に受け入れるはずも無く、兵士と武器弾薬を積んだイルグンのチャーター輸送船「アルタレナ号」を巡 りイスラエル国防軍とイルグンの間で銃撃戦に発展する。結局この輸送船は全ての物資を揚陸しないまま沿岸に展開するIDFの砲撃により撃沈され、6月28 日にはイルグンの抵抗も止み過激派テロ組織のシュテルンを除く全武装勢力はIDFの指揮下に置かれる事になる。

全軍の統一に成功したイスラエル側とは対照的に、アラブ陣営は路線の違いにある反目が表面化し始めていた。名目上アラブ連合軍の最高司令官の地位にあったト ランスヨルダン国王アブドゥッラーは、休戦期間を利用して各国を歴訪し、協力関係の強化を説いて回った、しかし、パレスチナのヨルダンへの併合によって勢 力の拡大を図る目論見を見抜いたエジプト国王ファルークはエジプト軍の前線を視察したいというアブドゥッラーの要請を却下し、互いにいがみ合っている間に 休戦期間を経て戦力を拡充したIDFの攻撃に晒されることになる。

hugnner7月9日の夜、休戦解除と共にIDF初の本格的作戦「ダニー作戦」が開始された。テルアビブへの最大の脅威となっているロッドとラムラの奪回を目指すこの作 戦は南部方面軍司令イーガル・アロン准将の式かで実施され、ハレフ、イフタフ、キリアテの歩兵旅団と第4機甲旅団がアラブ側人知を南北から挟撃した。第4 機甲旅団には、休戦期間中に入手したオチキスH35軽戦車10輛とクロムウェル巡航戦車2輛を保有する第82戦車大隊を付帯していたが、これらの中古戦車 は次々と故障し本体から脱落する。しかし、隻眼の猛将モシェ・ダヤン中佐に率いられた第82機械化歩兵大隊が戦場に到着すると状況は一変し、ロッドとラム ラは1時間ばかりの戦闘でさしたる抵抗も無くIDFに奪還される。

7月15日、国連安保理事会は再び決議を行いパレスチナ紛争当事国に対する無期限の軍事行動停止とエルサレムの非軍事化を支持する決議第54号を採択した。 アラブ連盟とイスラエル双方の代表はこの決議を受諾し、7月18日の午前8時を以って発効された。しかし、前線での小規模な衝突が続きなし崩し的に消滅し てしまう。前線で戦いを続けるIDFはアラブ側の足並みの乱れに乗じて可能な限りの領土を簒奪しようと躍起になっており、ガラリア湖周辺とネゲブ砂漠でも 攻勢に転じていた。

9月17日、パレスチナの和平に尽力してき たスェーデン赤十字の総裁フォルク・ベルナドッテ伯がシュテルンの残党によって暗殺されると国際世論はイスラエルへ制裁を求める方向に動き出すも、IDF は国連による度重なる停戦履行勧告を無視して作戦を継続し、10月16日にはネゲブ砂漠でエジプト軍に対する総攻撃「ヨアブ作戦」を開始する。この作戦で はアロン准将率いる歩兵3個旅団と第8機甲旅団隷下の2個大隊が投入され、エジプト軍の拠点を各個撃破していった。包囲網の瓦解に危機感を抱いたアラブ軍 団のグラブ中将は、エジプト軍の救援作戦を行なってはどうかとヨルダンのアブドゥッラー国王に進言したが、アラブ陣営指導部のいがみ合いからこれを却下。 IDFは続く「ホレブ作戦」でエジプト軍残党を殲滅し、そのままエジプト国境を越えて領内へと進撃する。

こうして、イスラエルは緒戦の失地を回復するばかりでなく、アラブ軍団に占領されたヨルダン川西岸地区とエジプト国境に接するガザ地区を除くパレスチナのほ ぼ全域を手中に治めたが、少し勝ちす過ぎてしまった感があり、1949年1月1日、イスラエルのアメリカ大使館からベングリオン宛てにイギリスの最後通牒 が伝えられる。「イスラエル軍がエジプト領内から撤退しない場合、イギリスは1936年のイギリス=エジプト条約に基づいてエジプト軍を支援する」

べングリオンは、1月2日までに前部隊をシナイ半島から撤収させるようアロン准将に伝えた。最早アラブ側には継戦の気力は無く、またイスラエルも独立国家として生存できる最低限の領土を確保した事から停戦を受け入れる用意があった。

1949 年1月12日、まずエジプトとイスラエルの停戦交渉が、地中海に浮かぶロードス島で開始され、2月23日に正式な停戦条約が締結され休戦時の最前線がその まま国境線として定められたので、ガザの回廊部はそのままエジプト支配地域として残された。続いて3月23日、レバノンとの間で停戦協定が成立。ヨルダン 川西岸を保持するトランスヨルダンとシリアもそれぞれ4月3日と7月10日に停戦協定を結んだ。一方イラクは、停戦協定を結ばないまま兵力を撤収させてい る。

最大の懸案事項であるパレスチナの統治旧市街を含む東エル サレムがヨルダン、新市街のある西エルサレムをイスラエルが統治することが決まった。また「ユダヤ人が旧市街へと自由に出入りする事が出来る」という条文 が盛り込まれたが、実際にはヨルダンは立ち入りを禁じ、このことが後にイスラエル国民にエルサレム旧市街の奪還を狙う世論を生む。

こうして第一次中東戦争は一先ず終わりを告げる。しかしこの停戦証約はパレスチナ問題の根本的解決を意味するものではなく、この条約によって決められた数々 の暫定的処置が後々多くの問題を生み、複雑化の一途をたどる。アラブ人側から見れば、停戦条約で定められた国境線は「停戦ライン」に過ぎず、恒久的な国境 線として認めることはできなかった。また、パレスチナを巡る問題ではヨルダンとアラブ諸国の間に存在する根本的な認識の違いだった。

対 イスラエルの軍事作戦上最大の貢献を果たしたヨルダンだったが、戦争末期の1848年12月1日、パレスチナの親ヨルダン派のアラブ人指導者達は「パレス チナ・アラブ評議会」を開き、ヨルダン国王アブドゥッラーを「全パレスチナの王」と認定し、アラブ軍団に支配されていたヨルダン川西岸の全域をヨルダンに 併合するように求めた。12月13日にヨルダン議会は評議会の決議を全面支持する決議を可決する。1949年6月1日、アブドゥッラーの思惑通りヨルダン 川西岸と東エルサレムを併合した上で新たな国名「ヨルダン・ハシミテ王国」を高らかに宣言する。この処置は、自らの故郷がヨルダンに併合される事を望まな いパレスチナ人はもちろん、彼らを独立した存在と認めて後押ししてきた他のアラブ人側からも猛反発を受けた、1951年7月、エルサレムの旧市街にある聖 地アル・アクサ・モスクを参拝したアブドゥッラーは愛国的なパレスチナ青年に銃撃され死亡するが、これ以降パレスチナのアラブ人勢力とヨルダン政府の関係 は悪化の一途をたどる。そして、イスラエルの一方的な建国によって祖国を失った大量のパレスチナ難民の存在である。アラブ人の国外脱出はデイル・ヤシーン の虐殺事件をきっかけに急増しその数は70万とも100万とも言われている。ユダヤ人は自分らがヒトラーによって追いやられたのと同じ境遇に、今度はパレ スチナの民を追いやったのである。

停戦協定の規程によると、条約調印後6ヵ月以内に平和条約を締結するはずであった。しかし、イスラエル側が「独立戦争」と呼び、アラブ側が「破局」と呼ぶ第一次中東戦争は長い闘争の歴史の序曲に過ぎなかったのである。

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中東戦争全史(4)

2月 4, 2009 by editonal  
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国連統治下

第2次世界大戦で疲弊したイギリスには最早独力でパレスチナ問題を解決する気概は無く、イギリス外相アーネスト・ベビンは1947年2月19日、まだ発足 したばかりである国際連合(国連)に一任すると一方的に宣言した。その年の5月、ニューヨーク州レイクサクセスで開かれた国連の特別総会でイギリスの要請 は正式に受理され、「パレスチナ問題特別委員会」の設立が決議された。委員会は問題の解決に向けて計12回もの現地調査を行なったものの、最終的な結論を 出せずにいた。ところが第2次世界大戦後に2大超大国として派遣を争っていたアメリカ、ソ連の両国が分割案を支持する姿勢を見せた所から委員会は徐々に分 割案採択の方向へ動き始める。

ソ連の独裁者スターリンは、国内に存在するユダヤ人の処遇に就いて検討中であり、彼らを大量にパレスチナに追い払うのと同時に中東に対するソ連の影響力拡大になると目論んだ為である。

大 国の思惑に翻弄されつづけている中東情勢が、ここにきて配役を変えて米ソ2大国の意向に沿う形で話が進み、1947年11月29日、パレスチナの分割を規 定する重大な「国連決議181号」が採択された。この決議では、パレスチナはアラブ領、ユダヤ領、国連統治領の3つに分割され、3大宗教の聖地エルサレム はどの勢力にも属さない国際管理都市に指定された。が、この決議はアラブ人達の猛反発を呼ぶ。国連が決定したパレスチナの分割案はユダヤ人に極めて有利な 土地配分になっていたからである。

1946年の統計によると、 パレスチナの総面積約2万6千平方キロに占めるユダヤ人所有地の割合は10%に過ぎなかったにもかかわらず、国連の分割案ではパレスチナ全土の過半数であ る約1万4千平方キロをユダヤ人に分け与え、かつその中には東地中海沿岸の肥沃な農耕地が数多く含まれていた。イギリス駐留軍にテロを繰り返していたユダ ヤ人とは違い、アラブ人たちは先の「マクドナルド白書」以来第二次世界大戦の全期間にわたってイギリス駐留軍やユダヤ人勢力に対する暴力行為はほとんど行 なってはいなかった。イギリスによって国外追放処分を受けていたハジ・アミル・アル・フセイニがイタリアのローマから枢軸側に協力を呼びかけた際にも、目 立った反応は見られなかった。だが、ここにきて第二次世界大戦の戦勝国の寄り合いで所帯ある「国連」に、パレスチナのユダヤ人に対する事実上の領土割譲を 一方的に決められ、パレスチナで最も豊な領土を移民でしかも少数派であるユダヤ人に空渡す理由などは考えられず、それまでイギリスに対して協力的だったア ラブの指導者達は国連決議第181号を機に、一定して態度を硬化させ、11月29日をアラブ人にとっての「服喪と圧制の日」と制定し、パレスチナ各地で反 ユダヤの武装闘争を大々的に再開したのである。この日より、アラブ人勢力とユダヤ人勢力双方のテロが続く。以下主だったものを列挙してみると、

11月30日 ・ユダヤ人乗客多数を乗せたバスがロッドの町近くでアラブ人に襲撃され、乗客七名が死亡
12月01日 ・アラブ人勢力の指導者はエルサレムのアラブ人地域に対し3日間のゼネストとユダヤ人商店のボイコットを布告
12月02日 ・エルサレムでアラブ人がユダヤ人商店街を焼き討ち
・プリンセス・メアリー通りのアラブ人商店街をユダヤ人グループが襲撃
・エルサレムのアラブ人居住区に夜間外出禁止令
12月11日 ・エルサレムの旧市街にあるユダヤ人居住区を襲撃
・エルサレム南方のベツレヘムで、アラブ人勢力によるエルサレムへ武器、食糧を輸送するトラックを待ち伏せ攻撃
12月12日 ・ユダヤ人グループによるエルサレム旧市街のダマスクス門で爆弾テロ。死傷者47人
12月13日 ・ユダヤ人グループによる地中海沿岸の港湾都市テルアビブとハイファへのテロ攻撃。死者60名以上

女子供を巻き添えにした一般市民への凄惨なテロの応酬をイギリスは止める手立てが無く、むしろ傍観し、駐留するイギリス軍は事態の悪化の原因を作りつづけた にも関わらず、国連決議で決まられた撤退の期限を3ヶ月早め、全てを放り出して本国への完全撤退を急ぐ有様であり、国連の採択では実質的な主役を演じた米 ソ両国も、紛争解決のための新たな策を講じようとはせずにいた。

元 エジプト国防相サル・ハルブ・パシャはイスラム教総本山の1つであるカイロのアル・アズハル寺院で、約2000名の観衆を前に右手に拳銃、左手にコーラン を持ち、「我々に残された物は銃とコーランだけになった。」と、涙ながらに訴えた。パレスチナを巡る争いは、実質的な内戦状態得と突入し、イスラム対ユダ ヤの様相を見せる事になる。

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中東戦争全史(3)

2月 4, 2009 by editonal  
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第二次世界大戦

イギリスの執った中東のアラブ人勢力を懐柔して味方につけようという姿勢は、まるで第一次世界大戦場当たり的な状況を彷彿させ、ユダヤ人にとって最早信頼 できる統治者では無くなっていた。ユダヤ人による独立国家の創設を目標とするシオニスト達は、政治的働きかけのベクトルをイギリスからアメリカへとシフト させていった。「バルフォア宣言」の立役者ワイツマンとシオニズム運動の指導者デビット・ベングリオンは1940年以降毎年のようにアメリカ大統領フラン クリン・ルーズヴェルトと会談し、パレスチナでのユダヤ人国家成立への援助を要請した。アメリカ国内の世論は概ねユダヤ人に好意的で、特に在米ユダヤ人の 半数が住むニューヨークにおいては顕著であるということはそのまま大統領選挙の結果に直結しかねないという判断もあって、アメリカ政府はユダヤ国家創立容 認の方向に固まりつつあった。

ph後 にイスラエル初代大統領となるデビッド・ベングリオン、本名デビッド・グリーンは1886年10月、帝政ロシア領ポーランドのポロンクスという村で生ま れ。10代の頃からシオニスト運動に身を投じ各種の啓蒙活動を行なっていた。20歳の時に労働移民としてパレスチナの地を踏み、以後ベングリオント名乗る ようになる。労働運動の指導者としてユダヤ人社会の中で頭角を表し、1935年にはエルサレムのシオニスト執行部議長の地位に登りつめた。

1939 年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻とそれに呼応した英仏両国によって行なわれた対独宣戦布告から始まった第二次世界大戦ではあるが、ユダヤ人は微妙な 立場に立たされてしまった。あの「マクドナルド白書」を発表したイギリスに味方する訳にもいかず、かといってユダヤ人撲滅を標榜するドイツと手を組むなど はもってのほかであった。そこでベングリオンはある演説で「我等ユダヤ人は、白書の事など無かったかのようにドイツと戦い、ドイツとの戦争など無かったか のようにイギリスと戦うであろう。」と声明を発した。この我々の敵はドイツでもイギリスでもなく白書であるといった内容の声明のもつ効果は大きく、イギリ ス人に対する反感を一次封印して当面の敵であるドイツと戦う決心を固めた多くの若者が中東におけるイギリス主体の戦闘に参加していく。兵役に志願した男女 の数は約13万人にも及び、ベングリオンは装備や武器の調達に頭を抱えたほどであった。

pengrionこのようなベングリオンの活動はアメリカにおいて高く評価され、1942年にアメリカを訪問した彼は在米ユダヤ人資産家の手厚い歓待を受ける。1942年5 月11日にニューヨークのビルトモア・ホテルで在米シオニストを集めた総会で、後に「ビルトモア宣言」と呼ばれる声明を発表する。パレスチナの門戸開放と 国家建設に当っての必要な権限を求めた声明である。また彼はアメリカ滞在中、裕福なシオニスト支援者と積極的な会合を重ね、第二次世界大戦の終結までに数 十万ドルの資金援助を引き出すことに成功する。彼はこの資金で大量の工作機械を購入し、パレスチナへと送り出した。やがて到着した機械類はシオニストの秘 密工場へと運び込まれ、重火器や弾薬の製造機械に改造され大量の武器がユダヤ人兵士に供給される。

一 方、イギリス国内でもワイツマンの活動が実を結び始めていた。1944年9月、彼の提案によりパレスチナ在住ユダヤ人3650名からなるユダヤ人旅団の創 設がイギリス国防省によって承認され、同旅団は直ちにイタリア戦線に投入された。ちなみにこの旅団が掲げていた白地に青いダビデの星と上下に青いラインを あしらった旅団旗は、その後イスラエルの国旗となる。

同じ頃パ レスチナでは、イギリスと関係が深い「ハガナー」と呼ばれる地下組織が中心となって、ユダヤ人勢力の軍隊が編成され始めていた。ハガナーの原型となる組織 が創設されたのは1909年の事で、当時は入植したユダヤ人の村落や集団農場(キブツ)を警護する民兵組織に過ぎなかったが、1920年6月12日に「ハ ガナー」の名称を冠する統一組織として結成された。1936年にエルサレム各地で頻発したアラブ人の暴動を機にハガナー内部に特別野戦部隊(SNS)と呼 ばれる自警団が組織されイギリス軍の情報将校オード・ウィンゲート大尉(後にインパール方面で日本軍と戦う)の下、夜襲やゲリラ戦の訓練を受けていた。

第 2次世界大戦が勃発した1939年9月、兵員2000名を擁するようになったハガナーは、テルアビブに総司令部を設立し、1941年にはウィンゲートの訓 練を受けた特別野戦部隊を中核とする軍事組織「パルマッハ」の6個中隊がハガナーの常備軍として編成された。後にイスラエル首相となるイツハク・ラビンや 中東戦争で参謀総長を務める事になるハイム・パーレブ、ダヴィッド・エラザールらもこの部隊の出身である。翌42年にはパルマッハの構成員は3000名に 増加し基本的に親イギリス武装勢力として戦闘に参加し、フランス降伏後はシリアに駐屯するヴィシー政権軍と戦う。後に国防省であるモシェ・ダヤンが片目を 失ったのはこの戦闘での負傷である。

だがユダヤ人の中には親英 的なハガナーに指揮される事を拒み、独自の民兵組織を編成して反イギリスの武力闘争をするグループもあった。後に悪名を轟かせる「イルグン」や「シュテル ン」などのテロ組織がそれである。先のマクドナルド白書以降委任統治者であるイギリスに対する憎悪が強まり、イギリスがヒトラーとの戦争を続けている間に も、ユダヤ人過激派による反英テロ活動は止むことは無かった。

1944 年11月6日、イギリスの植民地相ウォルター・モインがエジプトのカイロで自動車から降りたところを二人のテロリストに射殺されるという事件が発生した。 モインは1941年12月にルーマニアからのユダヤ人難民船シュトルーマ号のパレスチナ入港を拒絶し、船はルーマニアへ戻る途中に黒海で沈没し、760名 以上のユダヤ人が死亡するという事件に絡みパレスチナのユダヤ人の間では憎悪の対象となっていた。犯人はシュテルンに所属するユダヤ人極右青年と判明し、 これを聞いたイギリス首相チャーチルはモインが構想中であったパレスチナのユダヤ国家創設案を閣議に提出する事を中止する。チャーチルは自ら植民地相を務 めていた時代から一貫してシオニズム運動の賛同者であったが、親友のモインを殺されてからは二度と政治的シオニズムに興味を示す事は無かった。世界の歴史 を見るに、暗殺という行為は双方にとってあまり良い結果を生まないという事であろう。

1945 年4月、アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト大統領が死去し、彼以上にシオニストに好意的なハリー・トルーマンが就任する。この年の8月31日、ト ルーマンはイギリスの新首相アトリーに向けて書簡を送り、ナチスの迫害によって生まれた10万人のユダヤ人難民をパレスチナへ移民として受け入れるよう要 請する。この書簡をきっかけとして両国は6人ずつの調査団を合同で派遣し1946年5月1日に次のような内容の調査報告書を提出した。

  • パレスチナをアラブ人地域、ユダヤ人地域に分割する政策は採用せず、暫定的に国連による信託統治を行なう。
  • ナチスの迫害により生まれた10万人のユダヤ難民はパレスチナへの入国を認め、移住許可証を与える。
  • パレスチナ地域の土地保有制限を撤廃し、ユダヤ人(個人、企業、組織)が自由にパレスチナ国内の土地を購入できるようにする。

この調査報告書をもってしても、パレスチナ問題の解決には繋がらなかった。両国の議会ともにこの問題を重要な問題として取り上げる事はせず、特にイギリス政 府は報告発表の5日前にシュテルンによって行なわれた武器奪取のための襲撃事件で6人の戦死者を出していた為、硬化していた。

このような米英両国の態度を見て、パレスチナのユダヤ人たちは自らの手で祖国を獲得すべく個人レベルでの反英武力闘争を繰り広げる事になる。イルグン、シュ テルンの過激派グループに加え、2者に引き摺られる形でハガナーも反英テロ活動に加わり、各地で監獄や難民収容所、爆弾テロなどが行なわれた。これに対し イギリスは、本国より第6空挺師団を投入し武装勢力の鎮圧を図り、1946年6月29日パレスチナのユダヤ人組織の家宅捜索と幹部の一斉検挙に乗り出し た。「ブロードサイド作戦」と呼ばれたこの作戦で3000人のユダヤ人が逮捕された。この強硬手段に対するユダヤ人側の報復は苛烈を極め、7月22日の正 午過ぎ、エルサレム随一の歴史を持つキング・ダビデ・ホテルが、メナヒム・ペギン率いるイルグンによって爆破される。この際高級ホテルにはイギリス政庁や 軍司令部、情報機関などが入っており、ユダヤ人17人を含む91人が死亡、100人以上が負傷する大惨事となる。この事件をきっかけにイギリスはパレスチ ナから全面的に手を引く用意を急ぐ事になる。

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中東戦争全史(2)

2月 4, 2009 by editonal  
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第一次世界大戦

1914年6月28日オーストリア・ハンガリー帝国の大公にして皇太子であるフランツ・フェルディナンドがセルビア人の学生、ガブリロ・プリンチップに よって暗殺された事件がきっかけとなり、第一世界大戦が勃発する。同年10月オスマン・トルコ帝国が枢軸側に立って参戦し、この事により中東にも戦火が拡 大する。重要戦略物資である石油を産出する中東での権益を獲得するにはオスマン・トルコ勢力の駆逐することを考えたイギリス政府は、第2戦線として反オス マン・トルコ勢力を作り出す事を画策し、翌年5月にカイロ駐在のエジプト=スーダン高等弁務官サー・ヘンリー・マクマホンを立ててアラブ人ムスリムの指導 者であるフセイン・イブン・アリーに対トルコ戦争協力要請の書簡を送る。フセインはダマスカス、ホムス、ダマ、アレッポを結ぶ領域内(厳密にはパレスチナ は含まれないが、イスラム教にとっての重要性を考えれば当然含まれると考えていた。)の独立と引き換えに承諾し、マクマホンもこれに答え10月24日に反 オスマン・トルコの反乱を起こしイギリス軍の行動を助けるという取り決め「フセイン=マクマホン往復書簡」が成立した。しかし、同時にイギリス政府は第一 次世界大戦後の中東をフランス、ロシアと分割統治するという「サイクス=ピコ協定」が英仏両国によって1916年5月に調印された。そうとは知らないフセ インは、自ら陣頭に立ちオスマン・トルコに反旗を翻した。ちなみにフセインの下に連絡将校として派遣された老古学者がトーマス・エドワード・ロレンス−ア ラビアのロレンス−である。またこれとは別に、ハイム・ワイツマンというロシア出身のユダヤ人科学者がシオニズムの理想をイギリス議会に理解させるべく、 精力的に活動していた。1916年末、イギリスでロイド・ジョージ内閣が誕生し、彼とは旧知の間柄である海軍大臣アーサー・ジェームス・バルフォア卿が外 務大臣に就任すると彼の政界工作は大きく前進し、シオニズム容認の雰囲気はイギリス議会で多数派を占めるようになる。もう一息でイギリス政府はユダヤ勢力 の側につくと踏んだワイツマンは、安全保障上の問題を巧みに煽りバルフォア外相からという形を取ってユダヤ国家創設を認める公式声明の文案を承認し、「バ ルフォア宣言」と呼ばれる書簡を11月2日付けで英国シオニスト連合会会長ロスチャイルドに宛てて送付された。これ以降、ユダヤ人のパレスチナへの移住は 増大していく事になる。この老獪な三枚舌外交は戦後の中東に大きな混乱をもたらす事になった。

balfour1917「バ ルフォア宣言」後、当然ではあるがパレスチナのアラブ人社会に大きな衝撃が走った。説明を求めるフセインにイギリス特使は「アラブ人の経済的、政治的自由 を阻害しない範囲でのみ行なわれている。」と答えたが、「バルフォア宣言」の内容と一致しない事は明白である、しかしフセインは好意的に解釈し深く追求す る事を止める。アラブ人勢力の支援を受けたイギリス軍は各地でトルコ軍守備隊を撃破し、1917年12月11日にはエドモンド・アレンビー将軍率いるイギ リス軍は聖地エルサレムへと入城した。818年ぶりにキリスト教徒の手に戻ったアル・クドゥスは再びエルサレムと呼ばれることになる。フセインの三男ファ イサルは、アラブ人部隊を率いてシリア地域まで進軍し、1918年10月1日にはシリアの古都ダマスクスからトルコ兵を駆逐する。そして、「フセイン=マ クマホン書簡」に示された他の3都市次々と陥落すると、戦意を失ったトルコ軍はイギリス側に休戦を申し入れ、同年10月30日には休戦協定が調印され中東 地域における第一次世界大戦は終わりを告げる。

ファイサルとア ラブ人幹部達はダマスクス入城後まもなく「アラブ政府の樹立」を宣言した。しかし、先の「サイクス=ピコ協定」によってシリアの支配権を獲得していたフラ ンスにはこの地域の支配権を認めるつもりは無く、1919年1月18日、パリで開催された和平会議にはファイサルも出席を許されたが、トルコ領土の戦後処 理に関する彼の意見は全く無視される。そして、1920年4月19日に始まった国際連盟の最高理事会での席上、シリアとレバノンをフランスが、パレスチ ナ、ヨルダン、イラクをイギリスが委任統治するという「サイクス=ピコ協定」が再確認され、フランスは同年6月25日にダマスクスへ軍隊を派遣し、ファイ サルとアラブ人勢力を町から追放する。

一方イギリスはフランス がシリアで行なったような強攻策を執る訳にはいかなかった。「バルフォア宣言」とフセイン=マクマホン書簡」という二つの約束のおかげで積極的な行動に 打って出る事ができ無かった。しかし、「サイクス=ピコ条約」で得た中東における権益をみすみす手放すつもりは毛頭無かった。1922年7月24日の国際 連盟理事会では、「トルコ帝国にかつて属していた若干の共同体(シリア、イラク、レバノン、トランスヨルダン、パレスチナ)は、自立能力を持つまで独立国 家としての体制を暫定的に認めうる発展段階に達している」という曖昧な表現に留められ、中東に対しどのような将来を望んでいるのかという明確なビジョンを イギリス自体も持っていなかったように思われる。かくして、爆弾を抱えたままではあるが列強による実効的な中東支配の中で新たな社会が模索されていた。

二つの大戦のはざま

さて、様々な混乱を経てパレスチナを委任統治するようになったイギリスだが、他の中東地域ではアラブ人による民族自決の動きが活発に繰り広げられていた。 シリアのダマスクスにアラブ人政府「シリア王国」を樹立したがフランス軍によって鎮圧された事件がきっかけとなり、中東のアラブ人は再び西欧文化圏に対す る敵愾心を燃やすようになる。1920年11月にはファイサルの兄アブドゥッラー・フセインがパレスチナ南東のマアンに到着し、そこで大々的な反フランス 闘争の開始を宣言していた。アラブ人勢力とフランスの双方から圧力を受けるようになったイギリスは、政治的な解決方法を模索し始める。当時の植民地相で あったウィストン・チャーチルはエジプトのカイロで会議を開き、事態の収拾を図った。

会議の内容は

  • ペルシャ湾と隣接するメソポタミア地域を“イラク王国”として独立させ、シリアから追放されたファイサルを国王に就任させる。
  • パレスチナは今後もイギリスの委任統治が続くが、先の“バルフォア宣言”でシオニスト勢力に約束した“ユダヤ国家の独立”を目指すユダヤ人移民の受け入れは基本的に容認する。
  • イラクとパレスチナの中間に位置するヨルダン川東岸地域は新たに“トランスヨルダン王国”として独立させ、国王にはファイサルの兄アブドゥッラーを即位させる。

の三点からなっていた。

これによってアラブの独立は達成され、対トルコ戦での功労者であるファイサルと、反仏闘争の指導者アブドゥッラーにそれぞれ独立国を与える事で反フランス体 制を沈静化させることができ、「バルフォア宣言」の中でのユダヤ人への約定も守っているという姿勢を示す事が出来ると考えていた。これら独立国の石油利権 は宗主国たるイギリスに流入する仕組みになっているのは言うまでも無い。追って1923年5月15日、トランスヨルダン王国の成立が正式に発表され、イギ リスはヨルダン川東部の広い地域を間接的な支配化においた。しかし、この会議の内容には、重大な欠陥があった。それは、古来パレスチナ地域に住んでいるア ラブ人について何一つ規定されていなかったのと、イギリスの中東政策が全面的にユダヤ人側に傾きつつあるという印象をアラブ人側に与えてしまった事の二点 である。現地のアラブ人勢力は前にも増して反イギリス、反ユダヤの姿勢を強める事になる。

パ レスチナのイギリスによる委任統治が開始された1920年7月、初代の高等弁務官としてユダヤ人であるサー・ハーバート・サミュエルが着任したが、自身も ユダヤ人である彼は熱心なシオニズム運動の支持者であり、着任から間もない8月には早くもパレスチナへのユダヤ人の年間移民数の枠を1万6千5百人と規定 した。イギリスによる1922年の調査ではパレスチナの総人口は約75万人で、その9割にあたる68万人はアラブ人だったが、もしユダヤ人が規定一杯の人 数をパレスチナに移住させると40年足らずのうちにアラブとユダヤの人口が等しくなる計算であった。事実上のシオニスト代表である弁務官のこの発表をアラ ブ側は受け入れるはずも無く、1921年の4月から5月にかけてパレスチナ各地で大規模な暴動が発生し、ユダヤ移民の農場や移民の収容施設が次々と暴徒に 襲われ双方3000人の死傷者が発生し、高等弁務官サミュエルは事態の収拾を図るべくアラブ人勢力の指導者を集めて方針の転換を宣言、パレスチナ移民受け 入れの一次凍結とパレスチナの港湾に停泊している移民船の乗客に対する上陸を許可しないと発表した。この決定はユダヤ人勢力を驚かせた。いまやシオニスト 側に立っていると思われたイギリスがアラブ人とユダヤ人の対立を深刻化させることは中東情勢の安定を狙うイギリスにとって不都合であり、サミュエルは大英 帝国の国益を優先せざるを得なかったのである。次にサミュエルがとった手法は反ユダヤ暴動の黒幕とみなされていた民族主義者ハジ・アミン・アル・フセイニ を懐柔しようとする。聖地エルサレムの大ムフティ(イスラム教の指導者)の地位に政治力を駆使して就けようと試み、その思惑通り1921年フセイニはエル サレムの大ムフティに選出され、翌22年にはより権限の大きな「最高ムスリム評議会」の議長に選出される。

エ ルサレムの名家アル・フセイニ家の当主ハジ・アミンはユダヤ人の入植に反感を抱くパレスチナのアラブ人の間で熱烈な支持を受けていた。しかしその頑固さと 独裁制、猪突猛進型の政治手法を嫌い富裕なアラブ人の間ではエルサレム市長ラギブ・アル・ナシャシビを新たな指導者に担ぎ出す動きが拡がっていった。彼の 考えでは、「ユダヤ人移民を完全に排斥するのではなくその範囲を限定すべきである。」というより現実的な主張を唱えていた。この二人の対立はあくまで政治 的なものに終始し、暴力的な事件にまで発展することは無かった。また1929年8月にエルサレムの西の壁(嘆きの壁)で起った衝突に起因する暴動を除けば ユダヤ人とアラブ人の対立は沈静化していった。

イギリスの委任統治開始から10年を経てパレスチナの地は安定化しつつあるように思われた。しかし1930年代に入ると正常は激変し、アラブ人とユダヤ人は再び衝突と流血の惨事を各地で繰り広げる事になる。アドルフ・ヒトラーの登場である。

1933 年1月30日、ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者等(NSDAP)がドイツで政権を握る。その2ヵ月後には「全権委任法」が議会の圧倒的多数(賛成 449反対94)で可決成立し、独裁体制に移行する。この当時ドイツ本国には約53万人のユダヤ人が居住しておりヒトラーは政権獲得と同時に公職追放、就 学制限などの反ユダヤ規程や法律(1935年9月、ニュルンベルグ法)を施行する。1938年11月のクリスタル・ナハト事件(水晶の夜事件)まで約 1000件以上にも及び、後もその生存権すら否定する政策がドイツ降伏まで続くことになる。

「ク リスタル・ナハト」とは1938年11月、フランスのパリに駐在していたドイツ人外交官が一人のユダヤ人青年に銃撃され死亡した事件があり、それをドイツ 宣伝相ゲッベルスが利用し大々的な反ユダヤ暴動に発展した事件で、ドイツ各地でユダヤ人の経営する商店やユダヤ教の礼拝所などが暴徒と化した市民に襲撃さ れる。その時粉々に飛び散ったガラスがまるで水晶のように輝いていたのでこう呼ばれる。この事件をきっかけにドイツを逃亡するユダヤ人が激増し各地の旅行 代理店にはユダヤ人が大挙して押しかける事になる。旅行者としてドイツを出国すると言う事は当然着の身着のままで、財産や家屋敷の大半を残しての逃亡とを 意味する。1941年にユダヤ人の移住が禁止されるまでの間にドイツを脱出したユダヤ人の数は約30万人に達すると言われている。

ドイツからのユダヤ人脱出が増加するに随い必然的にパレスチナのユダヤ人口も増加の一途をたどり、1933年当時は約23万人だったが1936年には約40 万人にまで増加しており、これは当時パレスチナで生活していた全人口の約1/4に相当していた。パレスチナのアラブ人の間では当初は寛大な姿勢で見守って いたが、大資本をバックに続々と入ってくるユダヤ人を見て祖国を乗っ取られるのではないかという危機感が高まり1936年5月7日、アラブ人組織のリー ダー達はエルサレムに集まり、これ以上のユダヤ人を入植させてはならないという決定を下した。これに対しイギリスはアラブ人過激派に警告を発し、暴力行為 に対する弾圧を強める姿勢を見せたがイギリスへの不信を強めていたアラブ人にはむしろ逆効果で5月13日、最高ムスリム評議会議長ハジ・アミン・アル・フ セイニは反ユダヤ闘争の開始を宣言する。

9月22日アラブ人組 織のスポークスマンは「反ユダヤ闘争を反イギリス闘争に拡大する」との方針を掲げ、イギリス政府に対するシオニスト勢力の影響がなくなるまでこの闘争を続 けると宣言した。イギリスには目前に迫ったドイツ第三帝国との戦争遂行する上で中東の産油国に反英感情を植え付けることだけは避けたいとの判断から180 度転換し、翌年9月に発表した「マクドナルド白書」にはアラブ人勢力の要望を色濃く反映していた。

  • 10年以内にアラブ人主導のパレスチナ国家を創立し、イギリスとの特別条約によって同盟関係を結ぶ。
  • パレスチナのユダヤ人移民の数を5年間で7万5千人に制限し、それを超える場合はイギリス政府の許可を必要とする。

などの文章が盛り込まれており。「マクドナルド白書」の発表は、必然的にパレスチナのユダヤ人に自衛のための武力闘争へと駆り立てる事になって行く。

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中東戦争全史(1)

2月 4, 2009 by editonal  
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序文

地球上で、戦争や紛争を複雑化するの原因として大凡3つの問題が有ると言われている。1つは宗教、1つは民族、最後に土地。ユーゴやインド-パキスタン、 そしてこれから語ろうとするイスラエルには、この3つとも絡んでいる。日本に住んでいる限りどれも馴染みの薄い物ばかりで、生半可な知識や夢想的平和主義 では理解するどころか失笑され、逆に反感を持たれることも有り得るであろう。しかし「わからない」と放り出しては全く発展がないし地球レベルで考えれば無 責任な話である。ここで述べるのは必要最小限ではあるが、あなたが中東問題を考えるきっかけになれば幸いである。

原点

ユダヤ教、イスラム教、キリスト教という3つの宗教の聖地、エルサレム(アラビア語ではアル・クドゥス)。聖地エルサレムを含むパレスチナ。旧約聖書に よると、当時カナンと呼ばれていたこの地に初めてヘブル(ユダヤ)人の国家が成立したのは紀元前11世紀頃と書かれている。この地には元々ペリシテ人と呼 ばれるヨーロッパ系の人々が住んでいたのだが、彼らを叩き出して作られた。が、大規模な争いもなく比較的平穏に暮らしていたとされている。しばらくは平和 な時代が続くが紀元前922年に統治していたソロモン王が死ぬと、王国は南北に分かれて内乱に突入する。経済的に疲弊した二つの国家は外的の侵入を防ぎき れずに紀元前917年には首都エルサレムがエジプト王シェションク1世によって陥落し、これ以降ユダヤの民はバビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマなど に移り住みイスラエルの名前は歴史の表舞台から姿を消す。エジプトの衰退後はローマ帝国が支配し、紀元後66年から70年にかけての「ユダヤ戦争」がロー マ軍により鎮圧され、ユダヤ人最後の抵抗であった「バルコホバ戦争」もハドリアヌス帝下のローマ軍に殲滅された。以後ユダヤ人がエルサレムに居住すること は禁止され、王国再建の夢を断たれたユダヤ人たちは世界中へと分散する。この分散を「ディアスポラ」と言いユダヤ人の彷徨の象徴として語られる事になる。 パレスチナはローマ帝国、マムルーク朝、十字軍、などによって統治され、1516年より400年間オスマン帝国に支配された。エルサレムにはアラブ人、カ ナン人、ペリシテ人、ユダヤ人などが規制や規則はあったものの互いに共存し、平和に暮らしていた。しかし、この平和を根底から覆す動きが19世紀末に起っ た。世に言う「シオニズム」である。

シオニズム

heシオニズムとは、19世紀末に起った祖国回帰運動である。ディアスポラによって世界中に離散したユダヤ人が約束の地であるシオンの丘−エルサレム−に再び集 まり、安心して暮らせる国家を設立しよう、という運動である。ユダヤ教信奉する彼らは、流浪はしていても生活習慣を変えようとはせず、土着の文化と交じり 合う事を拒絶する傾向にあり、ヨーロッパ各国では差別や迫害(反セム主義)を受けてきた。それに加え、キリストを磔に追いやった民族であるユダヤ人をそれ らから守ろうとする動きも殆ど無かった。ユダヤ人は公職や一般職(商売や職人等)に就くことが禁止される傾向にあり、土地の所有も不自由であったために中 世には医師、弁護士、芸術家などの頭脳労働職や金融業に就く者も多く、シェークスピアの「ベニスの商人」の中に登場するシャイロックに見られるような悪徳 なイメージもあり、これも格好の攻撃材料となり、ロシアや東欧ではユダヤ人の排斥(ポグロムと呼ばれる)が激増する。そういった有形無形の苦しみの中か ら、全てのユダヤ教徒が安心して暮らせる祖国の必要性が叫ばれえる。その場所こそ約束の地であるシオンの丘−エルサレム−だったのである。

1896年2月、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンで一冊の本が発行される。タイトルは「ユダヤ人国家−ユダヤ人問題の現代的解決への試み」といい、著 者はテオドール・ヘルツェル。彼の考えは特に目新しいものではなく、これまでのシオニズムの延長線上にあったといえる。しかし、国家建設にかけてのプロセ スが非常に具体的であった。富裕なユダヤ人層や、敬虔なユダヤ信徒には彼の意見を危険視する声もあったが、その思想は中産以下の階級で徐々に浸透し始め、 出版から一年半後の1897年8月27日、第一回シオニスト会議の開催までこぎつける。シオニスト(シオニズム活動家)178人が集まったこの会議上でヘ ルツェルを議長とする「シオニスト機構(後にシオニスト世界機構と改称)」が設立され、シオニズム運動の目標を「パレスチナの地にユダヤ人のための国家を 設立する」といった内容を掲げた「バーゼル綱領」が採択される。その後、運動には様々な壁が立ちはだかった。1901年6月、ヘルツェルはイスタンブール のスルタンであるアブタル・ハミード2世に謁見し、パレスチナでのユダヤ人国家の設立を願い出たが却下され、ギリシャのキプロス島や東アフリカのウガンダ での国家設立を目論むも失敗し、1904年7月3日、疲労困憊したヘルツェルは失意の内にこの世を去る。まだ44歳の若さであった。

ヘ ルツェルの死によって求心力を失いつつあったシオニスト機構には頼らずに、独自で資金を調達してパレスチナに移り住むものが現れ始めた。彼らはアリヤーと 呼ばれ、ロスチャイルド家を始めとするユダヤ人富裕層からの援助を元にパレスチナの土地を購入し、合法的にパレスチナへの浸透を図ったのである。その数は 20世紀初頭だけでも約1万人に及びその後も続々と増え続けた結果、アラブ人との間に徐々にではあるが感情的対立が生まれ始めた。彼らの不安と反感は年を 経るにつれ増大し、互いが先鋭化していく。このわだかまりが爆発し、対立と混迷の時代へと導く事件が起る。第一次世界大戦とイギリスの介入である。

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