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ベトナム戦争-北のイースター攻勢

2月 4, 2009 by editonal  
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パリ和平交渉が煮詰まっているにもかかわらず、共産側は1972年3月末にこれまでに最大といわれる大攻勢を仕掛けた。これは、その時期から西側によって”イースター(復活祭)攻勢“と名付けられた。この攻勢の特徴は、

  1. 主力はあくまで北ベトナム正規軍であり、かつその事実を明らかにしていたこと
  2. 大量の戦車、装甲車、重火器を先頭にした野戦軍の戦闘を実施したこと

などである。攻撃はメコン・デルタ、DMZ周辺、中部高原の3方向に指定され、それぞれの主力は、NLF、北正規軍、両者の合同軍、となっている。もちろん主攻撃部隊 は、DMZを越えてきた北ベトナム軍であった。しかし他の2方面においても、北ベトナム軍は多数の支援兵力を派遣する余裕を見せている。なぜなら、当時北 は約60万名の正規軍と40万名の地方軍、民兵を有していたから、必要とあればその半数を南へ送ることができた。イースター攻勢において戦いが最も激し かったのは、南ベトナム最北部にあるクアンチ省である。DMZの南に位置することから、ベトナム戦争の全期間を通じて激戦の舞台となったこの省(日本の県 に相当)は、このときもまた戦場と化した。

3月30日、 T54、T55戦車160台を先鋒とする北ベトナム軍(第304師団)が、省都クアンチに侵入してきた。古都フエに駐留していた南ベトナム軍は40キロ メートル北上し、この北軍と交戦した。しかし北側は兵員数でも重火器の数でも南軍を上回り、3日目にクアンチ市は占領されるところとなった。この戦いは、 ベトナム戦争中屈指の激戦となり、特に南北両軍の戦車が大量に投入された。この戦争中に大規模な戦車戦が行なわれたのは、この時だけである。南ベトナム陸 軍の戦車数十台は、断続的に発生した北の戦車との戦いで、1ヶ月足らずの間に全滅した。

北 はこの戦いに、ソ連製の有線対戦車ミサイル、「サガー」を使用した。また、これまでハノイ、ハイフォン周辺にしか配備していなかったSA-2「ガイドライ ン」SAMをDMZを越えて持ち込んでいた。それに加えて西側でも充分に行き渡っていない携行SAM、SA-7「グレイル」(当時は”ストレラ“と呼ばれ た)まで用意していた。

これら3種類のミサイルの威力は極めて 大きく、南政府軍の戦車、ヘリコプター、そしてアメリカ軍の戦闘爆撃機は損害を強いられることになった。特に兵士が肩に担いで発射することができるSA- 7の出現は、南政府軍の最も有効な輸送手段であるヘリコプターの存在価値を大きく削減した。クアンチ省が北の手に落ちれば、続いて南ベトナム第2の都市フ エの存在が危うくなる。このため5月始め、南政府軍は1万名近い大軍をクアンチに増派した。またアメリカの航空部隊がダナン基地およびヤンキー・ステー ションから飛び立ち、爆撃を繰り返した。さらに海からは、アメリカ海軍の巡洋艦、駆逐艦が艦砲射撃を実施した。クアンチ市は海岸沿いの町であるので、1日 当り1万発にものぼったこの艦砲射撃は、北正規軍に大きな損害を与えた。それにもかかわらず、北はクアンチ省の占領を目指し、激戦が続いた。南ベトナム軍 は5、6、7月と3回の反撃を試みるが、北軍は頑強に抵抗を続けた。しかし8月にはいると、アメリカ軍が実施したハイフォン港の機雷封鎖の影響が出始め た。中国、ソ連からの海上補給が不可能となり、物資、弾薬が不足し始めたのである。

ま た、ラインバッカー?と名付けられた北爆により、陸上交通網も分断されていた。このため、半年近くも粘った北ベトナム軍も9月にはこの地区から撤退して いった。クアンチ省およびその周辺の地域の戦闘により、北・南両軍とも5,000枚を越す死傷者を出し、200台の戦車、装甲車を失った。また1万人の住 民が犠牲になり、この地区の大部分はその後数ヶ月間ほとんど無人と化してしまった。

現在でもフーバイ、フエ、クアンチにいたる街道の周辺には、焼け爛れた兵器が散乱し、激しかった戦闘の痕跡をとどめている。他方メコン・デルタ地区、中部 高原地帯の攻勢は、初期こそ激しかったものの短期間で終了した。これは攻勢の開始とともにアメリカが北爆を再開し、再び南に兵力を送る可能性が出てきたた めと考えられる。

実際のところ、アメリカ政府は議会の反対を押し切ってまでの再介入の意志はなかったであろう。しかし北・NLF側にとっては、万一そのようなことになれば、 先の見えているこの戦争も再び1968年以降の状態に戻るかもしれなかった。これが、北の攻勢が初期こそ凄まじかったものの、―クアンチ省以外では―早期 に縮小された原因である。ニクソン大統領は5月の初めから、北側の攻勢に対する報復として、北ベトナムの港湾に対する機雷封鎖を実施した。これに使用され た各種の機雷の総数は5,000〜7,000個に達し、30隻以上のソ連、中国、ソマリア、ポーランド、キューバ、東ドイツなどの商船がハイフォン、ビ ン、タンホア港などに封じ込められてしまった。そして、この水域で活動可能な船舶は排水量200t以下の艀に限られ、海上輸送量は激減した。

同時に鉄道網も徹底的に破壊され、どのような路線でも連続して100?以上繋がっている部分はなかった。加えて道路、航空路もアメリカ軍機によって遮断され てしまい、北ベトナム全土の交通は完全に麻痺した。もしアメリカが、ベトナム戦争駐機の1965〜68年にこれほどの封鎖手段を用いれば、南ベトナムは NLF勢力の拡大を抑え切ったのではないかと思われるほどの報復攻撃であった。

しかし、このような北ベトナム封鎖を続けてはいられない状況もアメリカにはあった。この年、相継いで実現した中国、ソ連との交流が壊れる可能性が生じてき たからである。結局北封じ込めは秋には緩和される。また12月の2週間、最後の北爆を実施するが、年明けとともに和平協定が結ばれるのである。皮肉なこと に、和平協定の発効とともにアメリカは4グループからなる大掃海部隊を北に送り込み、9ヶ月前に自軍が敷設した機雷を除去する作業を開始した。この掃海作 業は”エンド・スウィープ“と呼ばれ、アメリカ海軍の持つ総ての掃海艇が参加している。

そ して、2〜3ヶ月かかった掃海作業が終了すると、ハイフォン、ビン港などには、すぐに東側諸国からの武器を積んだ輸送船が入港するのであった。これに対 し、最早西側諸国は傍観していることしかできなかった。なおこの機雷封鎖作戦において、アメリカ海軍はベトナム戦争中最大の損失を記録している。それは駆 逐艦ウェリントンで、1972年7月11日に自軍の機雷に触れ、沈没は免れたものの大破してしまった。修理には数百万ドルの費用が必要と見られ、この艦は 廃棄となっている。

ラオス進攻<<北のイ−スタ−攻勢>>ライブラリーインデックス

ベトナム戦争-ラオス侵攻

2月 4, 2009 by editonal  
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昨年4月に実施されたカンボジア東部に対する進攻作戦から10ヵ月後の1971年1月末、アメリカ軍と南ベトナム軍はラオスへの進攻を開始した。こ れは、南ベトナム北部に隣接するラオス東南に存在するホー・チ・ミン・ルートの分断と兵站基地を破壊することを目的としていた。この作戦は”ラムソン 719“と名付けられたが、ある意味ではベトナム戦争の将来を暗示するものだったからである。その理由は、1970年から始まっていた”ベトナム化“政策 の結果を大規模で実践するものだったからである。これをより簡単にいえば、アメリカ製の兵器で武装し、百万名にまで膨れ上がっていた南ベトナム政府軍が、 NLFと北ベトナム軍に対抗できるかどうか試された戦闘であった。

” ラムソン719“はラオス領内50?まで深く進入するもので、地上戦闘は主として南政府軍が担当し、輸送、航空支援をアメリカ軍が引き受ける。これに参加 する南軍は第1歩兵師団、第1空挺師団、第2海兵師団という最強の部隊であった。またアメリカ軍は第101空挺師団隷下の航空部隊を主力として、ヘリコプ ター725機が加わる。

戦場となるの区域は標高500〜 1,000mの山岳森林地帯で、その中央を東西に国道9号線が通っている。この周辺には、3年前アメリカ軍と北正規軍が激戦を繰り返したアッシャウ渓谷も あり、作戦は初めから順調に進攻するとは考えられなかった。しかし成功すればホー・チ・ミン・ルートは完全に遮断され、アメリカ軍は近づいた撤退を前に大 きな置土産を南ベトナムに残してやれるはずであった。

ラオス領 内に潜む共産側の兵力は、カンボジアの場合と異なり、ほぼ全部が北ベトナム正規軍である。兵力は4〜5万名を数え、機甲2個連隊(戦車180台)を有す る。またアメリカ軍機の大挙襲来にそなえて、実に20個大隊を超える高射大隊を持っており、対空砲の数は1,000基を上回っていた。

1 月30日にアメリカ・南軍は作戦を開始した。地上部隊が9号線を西に進み、その北部はアメリカ軍特殊部隊が確保する。また南側は、第101空挺師団が空中 からカバーする。2月7日までに支援基地の設定を終え、8日から9号線を南ベトナム軍が進み始めた。同時に同国道の南、北両側でヘリボーンが行なわれ、3 つの拠点をラオス領内に置いた。しかし、2月10日頃からきたベトナムの反撃が開始された。同軍は9号線両側の森林に多くの対空陣地を設けており、これら の対空火器は上空を飛ぶヘリコプターを、時には9号線を進む地上部隊を射撃した。作戦発動後5日間でアメリカ軍は20機以上のヘリコプターを失っている。 また2月20日からも1週間、北ベトナム軍は多数の戦車を投入して反撃し、南軍は大きな損害を受けた。アメリカ軍のヘリコプターから発射された TOW(ATM)が20台のT34、T54、PT76を破壊したため、南軍は壊滅を免れたものの、この後の戦闘は北軍が主導権を握る形となった。

この月の終りには、”ラムソン719“が順調に進展していないことは誰の眼にも明らかであった。複雑な地形を熟知している共産側は、兵力を分散し、地上を進 攻してくる南政府軍を激しく攻撃した。そして、地上軍の補給を担当するアメリカ軍のヘリコプター部隊は、多数の対空砲により次々と数を減らしていった。こ のため、現在の兵力では不足と判断したアメリカ・南軍は、新たに1万名の兵力を増強し、体制の立て直しをはかった。3月6日頃から功を奏し、ようやくラオ スの小都市チュポンを占領することに成功する。そしてチュポン周辺の共産軍補給基地、物資集積所の破壊を実施することができた。しかしそれから10日後、 北ベトナムからの増援を受けた共産側は、強力な反撃に出た。これは大兵力を注ぎ込み、アメリカ空軍機の爆撃による損害が生ずることも覚悟の上の作戦であっ た。

この反撃作戦の効果は凄まじく、3月17日には南軍はチュ ポンから撤退、つづいて3月20日、チュポンの東22?に構築していたブラウン基地を放棄、翌日にはさらに2拠点から撤退という状況に追い立てられた。し かも、この撤退作業は総てヘリコプターでしか行なえないほど、北軍の進攻スピードは速かったのである。このため、南軍の兵士の一部は戦場に置き去りにされ るという事態も生じていた。また大型の兵器のほとんどは搬出できず、北軍に捕獲されてしまった。連日200機近い規模で出撃したアメリカ空軍機による攻撃 で多数の死者を出してはいるものの、戦局は北側に傾いていた。こういう中で3月末、”ラムソン719“作戦はともかく終了した。

結論から言えば、南政府軍を主力とし、アメリカ軍の支援によって行なわれたラオス進攻作戦は、北側の反撃によって完全に失敗したといえよう。大局的に”ラム ソン719“を見る場合、南ベトナム軍の戦力の限界を図らずも示したことになりそれを言い変えれば、南ベトナムという国家の将来を暗示するものであったと もいえる。動員可能な最強の部隊を持ってしても、北ベトナム軍を完全に撃破できなかったこと、強力なアメリカ軍の支援があっても、敵地に拠点を確保できな かったことなど、南ベトナムの戦力は―近年兵員数も増加していないこともあり―楽観できるものではなかった。

一方アメリカ軍としても、最早どのような手を打っても通常戦争の形を取るかぎり、この戦争に勝つことが不可能なことを思い知らされた。1970年まで極めて 有効だったヘリボーンでさえ、敵の対空火器が増強されたことにより万能ではなくなっていた。また密林に潜む敵に対して爆撃の効果が思うように上がらないこ とも再確認された。アメリカ軍の完全撤退までのスケジュールは、”ラムソン719“の失敗によっても、変更されることはなかった。この後、在ベトナム・ア メリカ軍は大規模な作戦を実施することはなく、たんに共産側から攻撃を受けた時に強力な反撃を行なうという戦法をとるようになる。

1年後に撤退することが決定している以上、アメリカ軍人がこの後の戦闘に積極的になれなかったことは充分に理解できる。もっともこの作戦以後も空軍、砲兵の支援だけは空前のスケールで行なわれた。

これは、ベトナムに運び込まれた弾薬、爆弾を使い切ってしまおうとする意図からで、この年の8月以降80万tの爆弾が南国内のNLF・北軍に投下されている。このことも結果として戦局を変えるまでに到らなかったのは言うまでもない。

カンボジア進攻 <<ラオス侵攻>>北のイースター攻勢

ベトナム戦争-カンボジア侵攻

2月 4, 2009 by editonal  
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南ベトナムに国境を接するカンボジアの政局は、60年代に入り混沌としてきた。親米派のロン・ノル、中立左派のシアヌークなど親米、親ベトナム派が 入り乱れて政権を狙っていたのである。このような多数のグループが存在すること自体が、統一されかつ強力な政府がカンボジアにはいないというシ証左でも あった。

ラオスの場合と同様、北ベトナムとNLFはこれらの状況を利用し、カンボジア領内に多くの拠点と輸送ルートを建設していた。グァム・ドクトリンによる”ベトナム化“を目前に控え、アメリカ軍としてはこのような状況を放置しておくわけにはいかなかった。

1970年4月26日、35,000名のアメリカ軍と25,000名び南ベトナム軍は、四方向からカンボジアに進攻した。目的は前述のごとく北・NLFの拠点攻撃および北からのホー・チ・ミン・ルート、南からのシアヌーク・ルートの切断である。進攻は次の目標に対して行なわれた。

■サイゴン西方のオウムのくちばし地区
南ベトナム軍を主力に15,000名が参加

■サイゴン北西の釣り針地区
主力はアメリカ軍で約2万名、これに5,000枚の南政府軍が加わる

■この中間にあたる聖域地区
南・アメリカ軍合計6,000名

■主としてメコン川上流のカンボジア領内
周辺を含み約3万名が参加。南軍が主力

この進攻作戦は、宣戦布告無しにアメリカ軍が他国へ侵入するため、できるだけ短期間に切り上げる必要があった。徹底的な攻撃には2ヶ月を要する見通しであっ たが、アメリカ国内の世論を刺激してはならなかったのである。当時、これらの地域には合計4万名のNLF・北軍兵士が存在すると予想されていた。攻撃は例 のごとくB-52や戦闘爆撃機によって火蓋が切られた。爆撃は数時間続き、そのあと武装ヘリの大軍が輸送ヘリを護衛しながら国境を越えた。4月26日の1 日だけで、延べ6,000回以上のヘリ輸送が行なわれた。また南政府軍の舟艇隊とMRFは400隻の軍用艇を投入してメコン川を遡行して共産側の拠点を 襲った。

この付近のNLFは歴戦の4個師団(合計2万名)で あったが、南・アメリカ軍の作戦行動が迅速であったために、有効な反撃は不可能であった。特に、大量に投入されたアメリカ軍のヘリコプターに対する火器が 不足しており、これが共産側を著しく不利に追い込んだ。作戦発動後わずか1週間にして共産側は大きな損害を受け、その後できるだけ戦闘を回避することに なった。

5月にはいると、一部の南・アメリカ軍は目的の敵拠点 を完全に破壊し、撤退を開始した。しかし、大部分の部隊は6月上旬までカンボジア領内に留まり、作戦を続行した。この進攻作戦の結果、カンボジア領内に あった共産側の補給ルートのかなりの部分が破壊、切断された。そして、アメリカ・南ベトナム軍は2万点近い各種兵器、6,000tを超す食料、その他 11,000tの軍需品を押収した。またNLF、北ベトナム軍の戦死者は10,721名、捕虜は1,216名にのぼった。これに対してアメリカ軍の損害は 戦死243名、負傷者931名、南政府軍は戦死575名、負傷者2,367名となっている。

この戦闘で注目すべき点は、共産側の捕虜数が多かったことである。ベトナム戦争を通じて共産側はほとんど捕虜を出さずに戦い続けが、このカンボジアの戦いに ついては、アメリカ・南軍の進攻スピードが速かったため、1,000名を超す捕虜を出している。この作戦は、南・アメリカ軍共同のものとしては、成功裡に 終わった最後のものとなった。拠点を喪失し、補給ルートが遮断されたため、1970年春から夏にかけて共産側の攻勢はほとんどなかった。しかし夏・秋頃に は両輸送ルートは再び修復・整備され前にも増して高い輸送能力を発揮するようになる。

同時にNLF・北ベトナム軍はこれらの失敗から多くの教訓を学んでいたのである。それは、ルートの複数化、拠点の分散、カンボジア、ラオス領内の陣地の強化 などである。とくに、大量に飛来するアメリカ軍のヘリコプターに対抗するための対空火器の増強であった。これらの処置は、翌1971年1月末に開始された ラオス進攻作戦”ラムソン719“の時に生かされることになった。

カンボジア進攻作戦は南・アメリカ軍にとって大きな勝利であったが、一方では翌年のラオス進攻の失敗と深く結びついているのである。

ホー・チ・ミン・ルート<<カンボジア侵攻>>ラオス進攻

ベトナム戦争-ホー・チ・ミン・ルート

2月 4, 2009 by editonal  
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現代の戦争において、勝敗を決する要素の一つは軍需物資の量である。ベトナム戦争の場合、

アメリカ・南政府軍 ― 近代兵器と物量
NFL・北正規軍   ― ゲリラ戦、戦闘意欲

を主要な武器としていたとする分析が一般的である。これは戦争の初期には間違いとは言えなかったであろうが、1966年頃からこの図式は形を変えている。

アメリカ・南軍の兵器と物量は常に豊富であったが、対する共産側も新しく威力のある武器を大量に装備するようになっていた。日本の自称革新的グループは心情 的に共産側(とくにNLF)が数少ない旧式な武器しか持たず、それを勇気で補って戦っていると考えたようである。しかし冷静に分析すれば、50万名を超え るアメリカ軍、100万名近い政府軍、6万名のMAFを相手に、貧弱な装備しか持たない共産側が勝てるわけがなかった。

イ ンドシナ戦争、朝鮮戦争においても、共産側の勝利は優れた戦術と新しく威力のある兵器、そして充分とはいえないが多数の武器によって得られているのであ る。とくに砲兵部隊は、常にアメリカ・南軍より優れた兵器を持ち、砲弾量も決して劣るものではなかった。例えば120?ロケット砲のような兵器は当時の西 側には存在しない。また西側の標準的な野砲であるM2A1は口径105?であったが、東側のそれはM46で口径130?もあり、威力はずっと大きかった。 一方、対空砲、SAMなどの量は、北ベトナム一国で自由主義陣営のすべてに匹敵する量を有していた事実を見逃してはならない。

それでは次に軍事物資の量の問題を考えてみよう。

nuibaden400ベトナム戦争の期間中、中国は50億ドル、ソ連は90億ドル分の軍事・経済援助を北ベトナム・NLFに渡したとされている。また、北ベトナムと中国は国境を接していたので、物資の引渡しはスムースに行なわれた。問 題となるのは、北ベトナムから南ベトナム領内の反政府勢力への輸送方法である。このための輸送路がホー・チ・ミン・ルートである。あらゆる軍事物資はハノ イからトラック、鉄道で運ばれる。そしてそこからDMZを避けてラオス領内に入り、南ベトナムとの国境沿いに南下する。このルートは南ベトナム中部高原地 帯の西側でラオス−カンボジア国境を横切り、プノンペン、サイゴンの中間地点まで続く。DMZを基点と考えると、直線距離として1,400?、総延長では 4,000?を越える長い補給線である。もちろん、ルートは1本ではなく主要なものだけでも5本、そしてそれぞれに無数の枝道が百足のように繋がってい る。このホー・チ・ミン・ルートこそ、NLFにとっての生命線であった。

ベ トナム戦争に介入したアメリカ軍は、この補給路の重要性を熟知していたので、あらゆる手段を用いてルートの切断を図った。空からは多数の航空機を使って爆 撃し、陸上からは地上部隊を進攻させてルートを遮断し、海上からは北ベトナムの海岸沿いの交通路を艦砲射撃した。それにもかかわらず、北からの物資の流れ の総てを断ち切ることはできなかった。この理由には大きな二つの原因が考えられる。

ま ずルートが山岳地帯(アンナン山脈)の中を通っていたこと。これは空中からの発見を困難にし、また密集した樹木は爆撃の効果を大幅に減少させる。また輸送 中の物資を敵の眼から隠して、集積しておく場所に困らない。このホー・チ・ミン・ルートが大平原の中を通っていたら、ルートは維持できなかったことは疑う 余地がない。次にラオス、カンボジアという国家の存在である。この2カ国が、完全な独立国として存在していれば、これまたホー・チ・ミン・ルートは存在で きなかったはずである。

ともかく自国の領土内を、他国の軍隊が勝手に通過し、それだけではなく補給路、基地を国内に建設したことに対し、何の対抗手段もとることができなかったの である。両国とも政情は常に不安定であり、また軍事力からいっても北ベトナムとは比較にならないほど弱体であったので、NLF、北ベトナムの自国内での勝 手な行動に対し、口頭・文書で抗議の意思を示すだけであった。

さてホー・チ・ミン・ルートに対するアメリカ・南政府軍の攻撃は空軍が主となって行われた。最盛期に北ベトナムは1万台のトラック、2万台の自転車をこの ルートに投入した。自転車は特に頑丈に製造されており、特性の木枠によって一度に200kgの荷物を積むことができた。したがってこの数値が正しいとすれ ば、1日当り5,000〜1万tの軍需品が南ベトナム領内に運び込まれたことになる。また20万名以上の人々が、ルートの新設、補修に従事したと北ベトナ ムは公表している。一方、アメリカ軍は持てる航空戦力の25%をこの補給路の破壊に使用した。B-52爆撃機から攻撃ヘリコプター、それに加えて輸送機を 改造した地上攻撃機(ガンシップ)まで投入している。

とくに 1970年の秋から春にかけては、前述のガンシップAC-130、AC-47を投入して”コマンドー・ハント“作戦を実施して合計25,000台の北のト ラックを破壊している。最大の戦果としては同年5月の最後の一週間だけで3,150台の車輌(1日当り450台)を破壊した。これに対し共産側はすぐに多 くの代替車輌を投入するとともに、大量の対空火器を持ち込んだ。1971年秋にはその数は1,600門にまで増加し、アメリカ軍機の低空攻撃を著しく困難 にさせたのである。

戦争の全期間中、アメリカ空軍はホー・チ・ ミン・ルート上で15万台を越えるトラックを破壊したが、それでも輸送量の約半分を破壊、阻止したにすぎないと発表している。このように、大きな損害を出 しながらも、北ベトナムの指導者の名をとったこのルートは、ベトナム戦争に決定的な役割を果たした。そのうえ、共産側は別な補給線を持っていた。これはハイフォン港から海路南下し、南ベトナム南部のメコン・デルタ地帯に物資を搬入するもである。

し かし、これはすぐに南政府の察知されるところとなり、北側はより南方のシャム湾を陸揚げ地とした。この地はカンボジア領であるから、南ベトナムやアメリカ 軍としては、正式にはこの陸揚げ作業は阻止できない。カンボジア南部からの物資は同国の領内を北上し、サイゴン西方で南ベトナムに運び込まれた。このルー トを西側ではカンボジアの旧元首の名から、”シアヌーク・ルート“と呼んだ。このルートは、ハイフォンからカンボジア南部の港まで海上路は2,500?以 上あるが、いったん陸揚げされてしまえば、サイゴン西方地域までは約300㎞で、ホー・チ・ミン・ルートの1/5の距離しかない。したがって、戦場までの輸送時間は量ルートともほぼ同じか、シアヌーク・ルートの方が短かった。

アメリカ軍はこのルートの輸送力を軽視していたようだが、戦後西側へ亡命してきたNLF高官の証言によると、1969年以降の輸送量はシアヌーク・ルート 40%、ホー・チ・ミン・ルート60%となっており、前者はほとんど妨害されなかったとのことである。このような事実が明らかになると、アメリカ軍が 1970年5月に実施したカンボジア進攻作戦は、―アメリカ・南側から見れば―当然の結果といえる。いかなる時代の戦争であっても、敵の補給路を破壊する ことこそ勝利への第一歩であるからである。当時、アメリカ国内でこの作戦についての反対の声が一斉に挙がったが、その人々は前線で戦っている自国の兵士についてどのように考えていたのであろうか。

そして、そのような考えを進めていくと、NLF、北ベトナム攻撃のためのアメリカ軍の基地を国内に持っていたタイ、フィリピン、そして日本は当然のことながら攻撃されるだけの理由があることになる。この問題は、総ての人々が一度時間をかけて自分自身に問いかける必要がありそうだ。

リバーラインの戦い <<ホー・チ・ミン・ルート>>カンボジア進攻

ベトナム戦争-リバーラインの戦い

2月 4, 2009 by editonal  
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南政府軍・アメリカ軍対NLFの戦闘においては、あまり知られていない分野が海岸線とリバーライン(Riverrine=河川の、川辺のの意)の戦いである。この種の戦闘はふたつの地域に絞られる。

  • 南ベトナムの海岸線における北ベトナムからの沿岸輸送の阻止
  • メコンデルタ地帯の湖沼、河川沿いの地帯における戦闘

前 者の場合、確かに長さ2,000?を越える海岸線が存在し、北からの沿岸輸送に適していた。もし北側がこのルートを使用して南ベトナムに物資を送り込むこ とを試みれば、それは不可能ではなかったはずである。しかし北ベトナムの海運・海軍力は非常に小さなものであり、また南ベトナム・アメリカ海軍の沿岸パト ロールは厳重を極めた。このため、南ベトナム沖合いでの船舶同士の戦いは少なかった。それでも北は、150ftクラスの武装貨物船を次々と南の沿岸に送り 込んだ。そのうちの何隻かは、パトロール中のアメリカ海軍の哨戒艇や沿岸警備隊の高速艇に発見され、小規模な海戦が発生している。

しかしアメリカ海軍は高性能の艦艇を使用し、必要とあらば駆逐艦、巡洋艦、それらに加えて艦載機の支援も可能であったから、北ベトナム貨物船とアメリカ海軍 の戦闘は常にアメリカ海軍の勝利に終わっている。アメリカ海軍は、この沿岸封鎖のために多数の駆逐艦を北ベトナム沿岸航路に投入した。この作戦は 1966〜67年にかけて極めて有効であり、2隻の駆逐艦がわずか1週間に110隻の”北“輸送船(50t未満のジャンクや艀)を撃沈したという記録も 残っている。またメコンデルタ地区については、北ベトナムの最も南に位置するドンホイの港から1,500?以上の距離があり、小型船の航行には遠すぎた。 しかし北ベトナム側から洩れてくる情報として、これ以外のルートがNLFへの物資輸送路のメインであったとするものがある。それは当時、北ベトナムからの 輸送は、DMZ西のラオス領内を通過して行なわれる、いわゆるホー・チ・ミン・ルートが主であると考えられていた。したがって、アメリカ軍は空軍力を駆使 してこのルートの攻撃を推進してきた。そして、ホー・チ・ミン・ルートの総輸送量の65%を阻止し得たとしている。

一方、”北“はホー・チ・ミン・ルートにおける損失に耐えかねて、北ベトナムから海路シャム湾のカンボジア領内の港、そして同国の陸路、南ベトナム領内の ルート(これがシアヌーク・ルートと呼ばれる)を使用したといわれる。南ベトナム・アメリカ海軍は、沿岸封鎖をシャム湾まで拡大する必要があったようであ る。メコン・デルタは、サイゴン南方150?を流れるメコン川が生み出した広大な三角地帯である。ラオス南部に端を発し、カンボジアを縦断し、南ベトナム 南部を横切るメコン川は全長1,700?に達する大河で、九龍(クーロン)と呼ばれている。この流域には、南ベトナムの背骨にあたるアンナン山脈は届か ず、一辺が100?のデルタが広がっている。そして多くの水田、湿地帯、湖沼、河川が入り組んでいて、かつてはアジア有数の稲作地帯であった。南ベトナム 政府、NFLともこの地区で収穫される米を手に入れる必要があり、そのためメコン・デルタ地帯では多数の戦闘が発生した。

もちろん地形の上から、それらは大部隊を投入しての戦闘とはならなかった。いずれの戦いも拠点の占領が目的ではなく、敵の兵力の撃滅が目標であった。そのため、スケールの大小とは無関係に戦闘は凄惨なものとなった。

1964年頃までこの地区の戦闘を担当していたのは南ベトナム軍で、主としてフランスの残していった旧式の舟艇を使用していた。しかしNLFの活動は日を追って活発化し、南軍はこれを鎮圧することはできなかった。

1966 年、アメリカはメコン・デルタの戦闘においても南軍の肩代わりをすることを決定し、アメリカ海軍機動河川軍(U.S Navy Mobile Riverine Force)を設立する。正式名称はMRFであるが、一般には”Brown Water Navy“と呼ばれた。これはメコン川の水が茶色だったことと、洋上海軍”Blue Water Navy“に対する呼称である。さてMRFは、新しく設計された水深の浅い場所でも航行可能なウォータージェット推進のボートを装備しメコン・デルタのパ トロールを開始する。このボート(PBR)は全長9,5mのグラスファイバー製で、最大速力25kt(46?/h)のごく平凡なものであった。しかし大量 生産が可能であり、また軽く、ヘリコプターで空輸できたため、メコンでは大活躍する。

1967年からMRFの小艦艇は、ヘリコプターと共同してNFLに大きな損害を与えた。しかしNFLに持ち運びが簡単で強力な威力を持つ対戦車ロケット砲 (RPG)が装備され始めると、小型軽量のパトロール・ボートは大きな損害を記録し始めた。このため、速力は遅いが充分な装甲と火力を持つ攻撃支援哨戒艇 (ASPB)などが配備された。また装甲を持たないものの、55kt(102km/h)の高速を誇る水陸両用ホバークラフトも3隻が投入された。しかし強 力な大型艇は水深の浅い河川には進入できず、また狭い水路でも走行可能な軽量艇は敵の攻撃に弱いという弱点を克服できなかった。1969年11月には、細 い水路に迷い込んで身動きできなくなった3隻のパトロール艇が、NFLの部隊に攻撃されて全滅するという悲劇も発生している。

アメリカ海軍は、MRFに加えて海軍の特殊部隊であるSEALも投入したが戦果は上がらなかった。MRFは、初期には9個中隊と7個補給中隊で結成され、約90隻の軍用艇を持っていた。しかし1968年末の最大事には500隻の哨戒艇、200隻の砲 艦、400隻の支援艇を保有する。このMRFの艦艇も、1969年から徐々に南ベトナム海軍に引き渡される。同海軍はそれまで保有していたものと合わせて 1,500隻の艦艇、3万5千名の人員を持つまでに成長する。

ベトナム戦争におけるアメリカ海軍の戦死、戦傷者は6,694名(内沿岸警備隊は24名)であった。その内訳は、

戦死者   1,605名
事故死者    911名
負傷者   4,178名

となっている。戦死者のうち約半数は、北爆で爆撃されたパイロットである。また事故死者の30%はトンキン湾上の航空母艦の爆発事故(合計4階の大事故があった)が原因で ある。これらの犠牲者を差し引くと、ブラウン・ウォーターの戦いにおけるアメリカ軍の損害は、戦死者140〜150名、事故死者130名、そして負傷者 350名と見られる。また南ベトナム軍の戦死・戦傷者はアメリカ軍の2倍、NLF側の犠牲者は1万名前後であろうか。

ケサン攻防戦<<リバーラインの戦い>>ホー・チ・ミンルート

ベトナム戦争-ケサン攻防戦

2月 4, 2009 by editonal  
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”ケサン(Khe San)77日間の戦い“としてベトナム戦史上に残る戦闘は1967年12月から開始された。戦死者、負傷者の数から見れば決して大きいとはいえないこの戦闘が特筆されるのは次のような理由がある。

  1. アメリカ軍と北ベトナム正規軍の正面対決であったこと
  2. アメリカ軍(海兵隊)が完全に”北“軍に包囲された戦いであったこと
  3. アメリカ軍が史上最大の空軍力を投入し、攻撃側の戦力を破壊したこと

しかしこのよう分析よりも、ケサンの戦いが全世界の注目を集めた点は、『ケサンは第二のディエン・ビエン・フーとなるか?』のひと言にあったようである。

ケサン基地はラオスの国境間近(約10km東側)で、DMZから25km南にあった。基地の大きさは東西1,8km、南北0,8kmで、1,200mの滑走 路が1本ある。そして基地の周辺には、S881、861、558、N881という前進拠点があり、ケサンを守っている。DMZの南側ではあるが、この基地 の位置はホー・チ・ミン・ルートのすぐ東にあたり、北ベトナムにとってはまさに目の上の瘤であった。またアメリカ軍にとっては、最も北に設けた前線基地と 言う意味合いがあった。戦いは1967年4月、5月に第1期と呼ばれるものが勃発していたが、規模は大きくない。ケサンが包囲され、陥落の恐れが生じてき たのは1968年1月中旬からである。同じ時期(1月30日より)に共産側は最大の攻撃”テト攻勢“を仕掛けており、同年4月初旬までがケサンの危機で あった。

もしテト攻勢が成功し、かつアメリカ軍の南ベトナムに おける最大の前線基地ケサンが陥落すれば、共産側はこの戦争における勝利の可能性を全世界に知らしめることができるのである。北ベトナムは、正規軍2個師 団(完全1個師団は10,300名)をもってケサンを攻撃し、他に1個師団をDMZ内に予備として残していた。また別の1個師団を基地の北東に置き、約 10km東にアメリカ軍が確保しているキャンプ・キャロルの牽制の役割を与えている。

ケサン基地の南側には国道9号線が東西に走っているが、この師団が基地東側から攻撃に加わることは難しかった。なぜならその場合、キャンプ・キャロルのアメ リカ軍により逆に包囲される危険が生ずるからである。しかし同時に、アメリカ軍としても迂闊に9号線を西進しケサン救援に向かえば、北方にいるこの師団か ら攻撃を受ける形になる。したがって、直接ケサンの戦闘に参加した部隊は、

アメリカ海兵隊2個連隊     約5,800名
南政府軍レンジャー1個大隊   約400名

に対し

北ベトナム正規軍第304師団   約10,300名
同第325師団   約10,300名

となる。またアメリカ・南軍側にはキャンプ・キャロルにある長距離砲支援部隊(155、175mm砲装備)とダナン基地からの豊富な空軍力があった。一方の北側としては、前述の予備師団(第324師団)と、いつでも戦闘に参加できる第320師団が準備されていた。

兵力数だけ見ればアメリカ・南軍6,000名対北正規軍2万名となる。ケサン基地の標高は約500m、周囲は500〜1,500m級の山岳であった。戦場と なった地帯の面積は基地とその西および北側の6×6?と考えられる。テト攻勢と時期をあわせて行なわれた北ベトナムのケサン基地攻撃は―ディエン・ビエ ン・フーの場合と同様に―猛烈な砲撃と塹壕戦で開始された。北側は遠距離からは射程31?の130?砲を、また近距離からは82mm迫撃砲、75mm無反 動砲を使用している。この砲撃は戦闘期間中1日当り150回、最大のものは2月23日で実に1,307回におよんでいる。最も砲撃力についてはアメリカ軍 のほうが圧倒的で、1日平均2,045回の射撃を実施した。

し かし、アメリカ軍にとっての 最大の問題は補給手段であった。基地は西と北側からの攻撃を受けていたが、南は道路が無く、東は北軍の支配下であった。結 局、補給は航空輸送に頼る他はない。戦闘期間中の空輸回数は1,120回、1回当り約10tの物資が送り込まれたれた。しかしこの代償として、4機の輸送 機と17機のヘリコプターが撃墜あるいは破壊され、他に35機が損傷を受けた。

2 月中旬から3月末にかけて北側は予備兵力3,000名を加え、24,000名が攻撃に参加した。戦闘は手榴弾が使われるほどの距離で行なわれる場合も少な くなかった。アメリカの新聞はこの戦いを連日大きく取り上げ、『ケサンは第2のディエン・ビエン・フーとなるか』の見出しが躍った。アメリカ軍としては早 急に救援活動を開始すべきであったが、テト攻勢およびその後遺症が残っていて動けなかった。

兵力に余裕のないアメリカ地上戦闘部隊のかわりに航空部隊の大量投入が開始された。この航空攻撃は間違いなく史上最大(当時)のスケールであり、アメリカ軍 はこれにNiagara(ナイアガラ瀑布)というコードネームを付けた。この作戦には戦術空軍、戦略空軍、海軍・海兵隊航空部隊が協力し、実に11万 4,000tの爆撃を行なった。戦闘爆撃機は約25,000機、B-52爆撃機は2,700機(延出撃数)が出撃した。1日の平均は300機および45機 である。

わずか2ヶ月の間に11,4万tの爆弾を 16×26kmの地域とその周辺に投下しているが、第2次大戦中日本本土に投下された爆弾量が16,4万tであったことを考えると、”ナイアガラ“の爆撃 がいかに凄まじいものであったか想像できよう。これにより兵員数では3〜4倍を有した北正規軍も攻撃力を大幅に喪失し、ケサン攻略をあきらめざるをえな かった。

4月1日、地上からケサンを解放するためのペガサス作 戦が開始され、2週間で終わった。 さてケサンをめぐる第2期戦闘(77日間)における両軍の損害はどのようなものであったのか。一説では米軍の戦死者約 1,500名といわれている。一方の北正規軍は5,000〜8,000名と推測される。アメリカ軍の人的以外の戦果として、対空火器2門、大型兵器207基、小火器557挺、PT76水陸両用戦車を含む車輌17台を挙げている。これらの数値か ら見れば、ケサンの戦いは決して大きなものとはいい得ない。例えば、テト攻勢中にアメリカ軍はフエの戦闘で1日に230名の戦死者を出しているのである。 しかし始めに述べた理由から、ケサンの戦いはアメリカ、北ベトナムともに自国の面目を全面に押し出しての戦闘であったと思われる。この戦いの結果、アメリ カ軍はいかに空軍力を投入しようと敵地上部隊を全滅させることは不可能であることを知った。一方、北ベトナム軍は逆に敵の激烈な敵の航空攻撃のもとでの大 規模な軍事行動は大きな損害を招くことを悟った。

ようやくケサ ンを包囲から解放することの成功したアメリカ軍は、7月に入ると基地を徹底的に破壊し、撤収する。その理由は、―表面的には行動の自由度を大きくするため というものだが―維持して行くための代償が過大にすぎなかったのである。ケサン撤収の決定はアメリカ軍内に大きな衝撃となった。55万名という大兵力を南 ベトナムに駐留させていながら、最大の前進基地を放棄せざるをえないという事実は、別な観点に立てばそれだけ北・NLFの圧力が大きいということでもあっ た。

テト攻勢 <<ケサン攻防戦>>リバ−ラインの戦い

ベトナム戦争-テト攻勢

2月 4, 2009 by editonal  
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1968年1月29日から開始された共産側の大攻撃は時期が旧正月(テト)にあたっていたことから”テト攻勢“と呼ばれた。その影響は、アメリカの大きな辞典に”Tet“だけで1968年春の大攻勢を意味する項が載るほどにショッキングなものであった。結論から述べると、この攻撃を共産側から見た場合、

  • 戦術的には損害が多く、また民衆の蜂起を促すことができず失敗
  • 戦略的には南ベトナム政府と駐ベトナム・アメリカ軍首脳に対するアメリカ国民の不信感を増大させ、予想以上の成功

攻勢は1月29日朝から開始され、NFL・北ベトナム軍6〜8万名が参加した。ベトナム戦争中に南・アメリカ軍の実施した最大の作戦でも、参加兵員は4〜5万名であるから、この一斉攻撃のスケールを窺い知ることができる。

攻 撃は南ベトナム大都市50のうち41都市に対して行われ、同時に基地、空港23ヶ所が襲撃された。主要な目標としては、大都市ではフエ、サイゴン、大規模 基地ではダナン、ビエンホア、タンソニェットなどである。とくにフエでは、2月25日まで1ヶ月(周辺を含めれば2ヶ月)にわたり攻防戦が続いた。この都 市の周辺だけでも両軍の兵士8,500名が戦死、市民6,000名が死亡、11万6千人が住居を
失った。またベトナム全土では、

共産側の戦死者       45,000名
自由主義陣営側の死者   4,300名
市民の死者          14,000名

という莫大な数となっている。テ ト攻勢の直前まで、アメリカ軍の首脳部はこの戦争の将来に対する楽観論を述べていた。それがこの一斉攻撃で根本から覆ることになり、アメリカ国民はようや く真実を知り始めることになる。この意味でテト攻勢ほど、ベトナム戦争の将来について決定的な役割を果たした戦いは他にない。冷静に見ても、共産側の戦力 はこの時期に頂点に達しようとしていた。1月末からベトナム全土で攻勢に出、他方ケサンの包囲船を同時に実施し、それが終了するとともに5月に第2次攻撃 を行なっている。とくにケサン地区による攻勢と5月の攻撃は、テトにおいて敵に大損害を与えたと考えていたアメリカ軍、南ベトナム軍に二重のショックを引 き起こした。

この状況から、最早核兵器以外のいかなる手段を用いても、南ベトナムにおける戦闘には勝つことはできないことをアメリカ国民は悟ったのである。この攻勢の全般的な状況についてはすでに(1968年)述べているのでここでは首都サイゴンをめぐる戦闘を記述する。

サイゴン周辺で共産側は2つの重点目標を選択した。1つは南ベトナム最大のタンソニェット(Tan Son Nhut)国際空港への攻撃であり、もう1つはアメリカ大使館の占拠であった。前者の場合、この空港は大空軍基地の役割を兼ねていたこともあって目標と なったのである。攻撃は4個歩兵大隊約1,200名が主力となり、1個工兵大隊が支援する。総兵力は1,500名を上まわった。これに対し、タンソニェッ トを防衛していた兵力は約1万名であり、アメリカ、南政府軍が半々であった。いつものとおり、攻撃はロケット砲の砲撃で始まり、迫撃砲多数がこれに加わっ た。続いて工兵が基地外周の三重の鉄条網を爆破し、歩兵大隊が突入してきた。

アメリカ・南軍は多くのヘリコプターと戦車を出動させ、空中と地上から反撃した。しかし、基地内に数百名のNFL兵が侵入してきたため戦闘は混乱を極めた。 NLF側の目的は空港内に駐機している軍用機の爆破であった。1965年頃には、アメリカ・南側は無雑作に航空機を並べていたため、小規模な攻撃によって も大損害を被ることが多々あった。しかしこの頃には、一応基地内に航空機用掩蓋(バンカー)が完成してたため、攻勢のスケールの割には損失は少なかった。

丸 1日の戦闘でアメリカ軍は11機の航空機を破壊されただけである。しかし攻撃ヘリコプター2機がNLFによって撃墜された。地上の戦闘は午後遅く、南・ア メリカ軍の増援が続々と到着したことによって共産側に不利となった。空港付近が平野であったためにNFL側は脱出が困難であり、それが損害を増した。戦闘 は24時間続き、NLF側は962名の戦死者を出した。これに対しアメリカ・南軍は55名の戦死者と160名の負傷者を出しただけであった。

し かし、一方のサイゴン中心のアメリカ大使館をめぐる戦闘はより凄惨ものとなった。南ベトナムにおけるアメリカの中枢である大使館には20名のNFL兵が突 入してきた。彼らは最初から死を覚悟しており、それだけに戦闘意欲は異常に高かった。20名は手榴弾と自動小銃で武装し、正門に立っていたアメリカ海兵隊 員、南政府警官を射殺して数分で大使館を占拠した。アメリカ大使、また駐ベトナム軍総司令官ウェストモーランド将軍は危うく難を逃れた。もしNLFの突入 部隊がこの両者を人質にとっていたら、アメリカの威信は地に落ちていたと思われる。この大使館への攻撃と前後して、大統領官邸、アメリカ軍放送局もNLF の襲撃を受けた。前者への攻撃は失敗したが、後者は完全に占拠されてしまった。

この状況は、偶然取材中のアメリカのテレビ局のスタッフによって全米に報道された。アメリカ軍は、大使館内の敵には屋上にヘリコプターで海兵隊員を送り込ん だ。45名の海兵と20名のNFL兵(彼らは後に自殺部隊と呼ばれた)は大使館内で激しい戦闘を交えたが、4時間後には決着がついた。NFL側は1名を除 いて全員が戦死し、海兵隊は十数名の死傷者を出していた。

一方、放送局を占拠していた7名のNLF兵の最後はより衝撃的であった。

完全に包囲したアメリカ軍、南ベトナム軍の降伏勧告を無視し、放送局もろとも用意した爆薬で自爆したのである。この経過もアメリカのテレビ局によって詳細に報じられた。

テ ト攻勢の数ヶ月前に、南ベトナムに同行したアメリカのTVカメラマンが撮影したフィルムが全米に流され、同軍の規律がとわれていた。この時南軍の兵士達 は、戦死したNLFの兵士の所持品を奪い勝手に自分の懐に収めていたのである。これに対し、自分の身を犠牲にしてまで大使館、放送局に突入したNLF兵の 姿とその最後はアメリカ国民に大きなショックを与えた。ある知識人は、南ベトナムからのアメリカ軍の撤退が決定されたあと、「この戦争の勝敗はテレビに よって決まった」と語っている。

テト攻勢と呼ばれた共産側の一斉攻撃は、サイゴン周辺では1週間、フエ地区では数週間続いた。8万名という大兵力が参加した大作戦も、アメリカ・南軍の反撃により4万名前後の死傷者を出して2月末に終了した。

損 害から見るかぎり、共産側の失敗は誰の眼にも明らかである。しかし、「戦いは有利に進んでいる」という軍首脳の言葉を信じていたアメリカ国民に対する衝撃 は計り知れないほど大きかった。南ベトナムにいる敵は、アメリカ人が考えているより何倍も強力で、士気も高かったのである。当時アメリカは約350万名の 総兵力を有していたが、ベトナムにはその内50万名を派遣していた。また南シナ海上の第7艦隊に7万、タイ、フィリピンなどに30万名を置いていたので、 全兵力の約3分の1がベトナム戦争に関わっていたことになる。その上テト攻勢前夜には、これに加えて20万名の戦闘部隊の派遣要請がウェストモーランド将 軍から届いていた。

これはどう考えても、全世界をにらむアメリカの国家戦略から見て、容易ならざる事態になりつつあったことがわかる。

このように見て行くと、1968年春のテト攻勢こそ、アメリカにとって南ベトナムを見棄てる決断を促したものといえそうである。そうであれば、共産側にとってこの攻勢に戦略的成功は、戦争を決定したほど大きな価値を持つものであったといえる。

ジャンクション・シティ作戦<<テト攻勢>>ケサン攻防戦

ベトナム戦争-ジャンクションシティ作戦

2月 4, 2009 by editonal  
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アメリカ陸上戦闘部隊と南ベトナム政府軍は、1968年まで共同してNLF・北ベトナム軍と戦うことが多かった。このような戦闘の中で最大のものが 1967年2月から5月にかけて実施されたジャンクション・シティ(J・C)作戦である。またこの作戦は、南ベトナム領内で行なわれた最も大きい自由主義 陣営からの攻撃行動であった。

作戦は2月22日に開始され、5 月14日に終了しているので、3ヶ月近い長い作戦であった。また、この作戦の名称は、実は18の中程度の独立した作戦の集合である。攻撃の対象となるの地 帯はサイゴン市の北西部からカンボジア国境にかけての戦闘地区C(War Zone C)であった。この戦闘地区Cという呼び方であるが、どのような理由からか、Cとその東側のDゾーンの2つしかない。またこれは、南政府軍が南ベトナムを 軍事的に区分している”軍管区“とも無関係である。このCゾーンはカンボジア国境とも接しており、ホー・チ・ミン・ルートと直接つながっている。いいかえ れば同ルートの最も南部の物資集積所でもあった。

攻撃の主力と なるのはアメリカ陸軍第1歩兵師団、第25軽歩兵師団を主力とする3万名と、南ベトナム政府軍第1、第24海兵旅団を主とする14,000名であった。一 方Cゾーンには24,000名の各種の共産勢力が存在すると推測されていた。また同時にこの地区にはNLFの総合司令部であるCOSVN(労働党南部中央 局。表向きは人民革命党と呼ばれた)があるとの予測もあった。作戦の開始は、グァム島から飛来したB-52による爆撃によって告げられた。続いて第173 空挺旅団がCゾーンの中央に降下した。これらの部隊は、カンボジア国境近くの村カツムを占領し、東からやってくる地上戦闘部隊とともに敵を殲滅する。この 空挺部隊あとから300機以上のヘリコプターによる5個大隊がカツムに到着した。

NFL はこの大規模な攻撃に驚き、戦闘を避けて退避した。これによりアメリカ・南軍はこれまで最も大量の軍需品、物資などを捕獲した。それらは900トンの食 料、100基の大型兵器、500挺以上の小火器であった。また5,000ヵ所以上のトンネル、集会所、住居などを発見し、それらを完全に破壊することがで きた。しかし初期の段階で、NLFは戦闘員を退避させることに成功していたので、人員の損害は比較的少なかった。

3月になるとNLFの反撃が始まった。この地帯は北方から1,000?も続いているアンナン山脈の南端にあたり、1,000m級の山々が連なっている。した がって戦いの様相は野戦とはならず、小兵力同士の接近戦となった。そのため、兵力、兵器の質で劣るNLFがその劣勢を補って戦える場所でもあった。NFL は兵力を100名程度に分散し、昼間は密林に潜み、夜間に攻撃に転ずるという戦法を繰り返した。またアメリカ戦闘部隊との直接戦闘を回避し、補給、輸送部 隊を重点的に襲撃したので、アメリカ・南ベトナム軍は、優勢な機動力を全く発揮できずに終わった。もっとも、NLFが大部隊でアメリカ・南軍に反撃してき た場合には、空軍力か豊富な火力により大損害を受けることになった。

3月末の3日間、NLFは3,000名以上の兵力を動員してアメリカ軍の2つの拠点を攻撃したが、1,000名近い戦死者を出して退却している。この戦闘によるアメリカ軍の死者は100名に満たなかった。4 月にはいると、南ベトナム各地で再びNLF側の攻勢が始まった。駐ベトナム・アメリカ軍のウェストモーランド大将は、ジャンクション・シティ作戦の継続を 主張していたが、すでに作戦そのものが全土にわたる戦いの中に組み込まれて、存在価値そのものを失い始めていた。そして、4月中旬移行はCゾーンの兵力が 次第に他に転用され、5月14日に作戦は中止される。J・C作戦は開始時の勢いを完全に失い竜頭蛇尾に終わってしまった。

さて軍事的にこの作戦を見て行くと、ある面ではベトナム戦争の実態をよく示しているといえる。1967年は駐ベトナムのアメリカ軍勢力が最も増強されつつあ る時であった。この時期に実施された最大の作戦であったにもかかわらず、そして南ベトナム軍を含めて4万人という大兵力を投入したにもかかわらず、結果は 成功とは評価できないものであった。アメリカ軍首脳は『J・C作戦は大成功であった』と自画自賛したが、同軍の一部には疑問が残った。投入可能な全力を注 ぎ込んで大作戦を行なったが、結果としてわずかな損失を与えただけ、というのが実情のようである。

この作戦のアメリカ・南軍の公表した結果は、敵の戦死者の総数は不明(一説では2,730名)死体確認数1,243体であった。しかし1967年1月から6 月の間のNFLの戦死者数は13,500名と発表している。この二つの数字を比べてみると、ジャンクション・シティ作戦の結果が、とくに大きなものではな いことがわかる。たしかに敵に与えた物質的な損害は少なくない が、この作戦に投入されて兵力と、作戦期間を考えると、決して充分とはいえない。そのうえCゾーンからアメリカ・南軍が引き揚げれば、NLFは当然のよう に再びその地帯に進出するのである。事実Cゾーン、Dゾーンおよびその南方の”鉄の三角地帯“(Iron Tri-angle:NLFの強力な地帯)とも1966〜1967年にかけて何回となく攻撃の対象となりながら、結局、南ベトナム陥落の時まで存在し続け るのである。

このジャンクション・シティにおけるアメリカ軍の 損害は戦死282名、負傷者1,576名そして24台の戦車・装甲車、12台のトラック、4機のヘリコプターであった。また南ベトナム政府軍の損害は公表 されていなが、アメリカ軍とほぼ同程度であったと思われる。アメリカ軍は1967年中に9,149名の戦死者を出している。これを1ヶ月平均になおすと 785名であり、3ヶ月にわたるジャンクション・シティ作戦における戦死者がわずか282名であるということは、この軍事行動でNLFとの接触が極めて少 なかったことを示している。したがってJ・C作戦は『失敗』と評価してよいだろう。

翌年のテト攻勢を見ても、ゲリラ戦の場合―規模の大小をとわず―攻撃をかけた方が目的を達成できないことが多い。この事実は軍事行動のスケールが大きいほど当てはまるようである。

南ベトナム政府崩壊 <<ジャンクションシティ作戦>>テト攻勢

ベトナム戦争-南ベトナム政府の崩壊

2月 4, 2009 by editonal  
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1975年春、北ベトナム、NLFは30万名という動員可能の全兵力を投入して全面的な攻撃を開始した。これは共産側自身が驚くほどに効果的であり、南ベトナム軍はわずか5週間で完全に壊滅するのである。3月9日に北正規軍は堂々とDMZを越え、南側の最も北に位置する都市フエを攻撃した。1968年にもフエはテト攻勢の目標とされた。この時、北とNLFは フエを2週間にわたって占領し続けたが、結局退却を余儀なくされている。しかし今回の春季攻勢では、3,000名の政府軍が駐留していたにもかかわらず、 わずか1日で北側の手に落ちた。フエ陥落の報はNLFの士気を高揚させ、中部高原地帯への攻撃も勢いづかせた。そしてフエが落ちて4日後、南ベトナム最大 の空軍基地であるダナンも陥落している。

フエとダナンの距離は 約100?であるから、軍隊の移動に丸1日かかったとしてダナンはわずか3日で共産側の手に落ちたことになる。この基地へ北ベトナム軍が進攻してきた時の ニュース・フィルムが残されているが、基地の機能は全く失われていないことがわかる。したがって、北側は50機を超す航空機、100機のヘリコプター、数 千tにのぼる武器、1万t近い燃料を入手した。そして航空機の一部は、数日後には胴体の国籍マークを塗りつぶして、南ベトナム軍を攻撃し始めるのである。

共産側の攻撃は主として3方向から続行された。まずフエ―ダナン―タムキイと海岸沿いの都市を狙って南下するもので、これは北ベトナム軍が担当する。次に中 部高原の南政府軍の拠点を占領する勢力で、北ベトナム・NLFの合同部隊である。また他の部隊は、攻撃を首都であるサイゴンに集中するが、この主力は NLFであった。北側の軍事指導者は、今回計画し実行した大攻勢によって南ベトナムが一挙に崩壊するとは考えていなかった。しかし作戦開始後、予想以上に 順調に進行するのを見て予備兵力を投入し、敵の全面的な壊滅をはかることになった。

共産側の進撃が速く、防御に回る南政府軍、民兵は次第に戦闘意欲を喪失しつつあった。それを決定的にしたのが、4月19日中部高原の都市バンメトートからの撤退である。これは南軍首脳の命令が曲解されたことから生じた。

南政府としては北部海岸平野、中部高原地帯への敵の圧力が大きいため、全防衛線をより南部へ下げ、サイゴン北方へ集中させようと考えた。そのため、プレーク、バンメトートの部隊に南下の命令を発したのであるが、これが総ての宣戦に撤退、退却と伝えられてのである。

しかしこのようなミスが無かったとしても、南の運命は変わらなかったであろう。共産側の攻撃は少しも休むことなく、4月1日にはクァイノン、同2日にはトイ ホア、3日にはファンフェイと都市の陥落は続いた。最早戦っている政府軍はわずかで、大部分の兵士は上官の命令を聞かず、家族とともに南へ逃げることに必 死であった。部隊を掌握できなくなった将軍の何人かは手榴弾、拳銃などを使って自殺した。判明しているだけでも15人の将官がこのような死を選択した。一 方首都サイゴンでは、事態を何とか収拾しようと懸命な努力が続けられていた。今さら間に合うはずも無かったが、首脳部の一新がはかられた。チュー大統領は 退陣し、政府軍の長老チャン・バン・フォンがその座についた。しかしこの交代式の最中、すでに砲声が聞こえるまでに事態は悪化していた。フォンも48時間 後には辞任し、ズォン・バン・ミンが南ベトナムという国家の最後の大統領となった。チューは最後の望みをマーチン・アメリカ大使に託した。この時点で”南 “を救えるのはアメリカ軍の直接投入しかなかった。しかしアメリカはこの申し出を拒否し、また4月1日に要請されていた7億ドルの軍事援助の実行も断っ た。そして、わずかに南の要人とその家族をアメリカへ移すための努力をしただけであった。

このような事情も判らないまま、南ベトナム政府軍の一部は4月下旬のなっても共産側に対する戦闘を続けていた。サイゴンの西と北にはまだ有力な南軍が残っており、それが海軍の協力を得てNLFと北軍の攻勢を何とか喰い止めていた。しかし4月21日には、共産側の兵力は防衛軍の3倍にまで増大していた。こうなっては最早どうにもならない。4月25日、サイゴン北方の防衛線が3個師団の共産軍によって突破された。それまで、南が敗れるという大方の予想を頑 強に否定していたマーチン大使も、アメリカ人のサイゴンからの退去を決断せざるを得なくなっていた。

アメリカ第7艦隊の航空母艦はサイゴン沖に終結し、敵を攻撃するためではなく、民間人を収容するための作戦”フリクエント・ウィンド“を開始した。

4 月29日、ついにNLFと北軍はサイゴンに突入した。しかしこの地での南軍の抵抗は全く無かった。T54戦車が大統領官邸の柵を踏み潰して侵入した。そし て官邸に集まっていた南政府の人々は宣戦布告していない敵に対して降伏したのである。このようにして、15年間続いたベトナム戦争はNLF,北ベトナム (そして中国、ソ連)の全面的な勝利で終了した。この1975年の春季攻勢で戦争が終わるとは、北、南、NLF、アメリカとも想像していなかった。北ベト ナムの指導者が言うように、「我々が考えていたよりずっと簡単で、作戦開始から55日間ですべてが終わった。」のである。

共産側はこの最後の戦闘では、大きな余裕を持って戦っていた。サイゴン占領を目的に戦力を集中していながら、一方では隣国カンボジアの首都プノンペンの占領 にも成功していたのである。サイゴンに先立つこと2週間、4月17日にプノンペンは陥落し、その後は実質的にベトナムの支配下に置かれることになる。

さてここでアメリカ軍撤退後丸2年間、独力でNLF、北軍の攻撃を支えてきた南政府軍がなぜ休息に崩れ去ったのかということに言及しておきたい。両軍の兵力 比はどうみても南側の方が優勢であった。陸軍兵力は2倍、空軍5倍、海軍に到っては10倍の差がある。これほど有利な状態でありながら、2ヶ月足らずで全 軍が壊滅した原因をどこに見い出すべきであろうか。

それは多分、無数に見つかるはずであるが、一つだけ取り上げるとすれば、南の首脳の無能さであろう。総攻撃が間近に迫っているのもかかわらず、その兆候も発見でき ず、したがって有効な反撃を実施できず、部隊を掌握することもできなかったのである。それにしても、南ベトナムという国家の消滅は衝撃的な出来事であっ た。四方から首都を目指す北ベトナム軍、それから逃れるため家も財産も捨てて南へ逃げる非難民、何とか事態の打開をはかろうとする政府。そして、その状況 はテレビという媒体を通して世界中へ報道された。

またそれは戦争に敗れるということが、どのようなことなのか、具体的に全世界の人々の前に掻き出して見せたのである。

1975 年の3月初めから4月末までの2ヶ月間に生じた死傷者の数は、南ベトナム側2〜2.5万名NLF・北正規軍約9,000名、民間人約2万人であった。戦争 は終わる直前にも多くの犠牲者を要求したのである。もっとも、北ベトナム軍は南ベトナムを解放(または侵略)することによって膨大な量の近代的兵器を捕獲 した。それらはアメリカ軍が南ベトナム軍に供与したもので、主なものだけ取り上げてみても、300機の固定翼機(内ジェット戦闘機100機)、500機の ヘリコプター、1,500台以上の戦車、装甲車、1,000門以上の大砲、数百隻の軍用艇などである。このため、統一後のベトナムは東南アジア屈指の軍事 力を持つことになる。海軍を別にすれば、兵器の量では人口が2倍以上の当時の我が国を上まわるほどの軍事力である。北ベトナムの軍人の一部は「戦争は場合 によっては自国の軍事力を増強させる。」と考えたことであろう。事実、この時入手したアメリカ製の武器は、北ベトナムのカンボジア進攻、また中越戦争の際 に大いに役立つのである。とくにアメリカ製の軽攻撃機、輸送ヘリコプターは中国軍相手の戦闘に多数投入された。

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ベトナム戦争-南ベトナム軍の戦闘

2月 4, 2009 by editonal  
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ベトナム戦争が本格化したのは1965年からであった。それまでの南政府軍の死者は1年あたり約5,000名、これに対してNLFの死者は1〜2万前後であった。65年に南の死者は1万名を越え、同時にNLFのそれは3万を越える。

ここでは、アメリカ軍の参加する前の状況を見ておこう。なお、アメリカ軍地上部隊(海兵隊3個大隊)は1985年8月に南へ進駐しているが、軍事顧問団としてはこの戦争の1年目から1,000名以上が参加している。

1965 年以前の南ベトナム軍の兵力は約50万名であった。この数字の大部分が正規軍であることに間違いないが民兵も含まれており、この民兵の数は不明であるが約 5万〜15万の間と予想されている。1963年頃までの地方の権力者は自分の支配下にかなりの数の武装勢力を有していた。この点は当時のフィリピンとよく 似ており、また都市にも先数百名の武装した集団があって政府軍と小競り合いを繰り返していた。そして、これらの勢力が1964年頃から民兵へと繰り込まれ たので、正確な数はとらえ難い。また一方においては兵員の質も問題であった。このような南ベトナム軍であっても、装備の点ではアメリカからの武器供与によ り新型の武器を持っていた。

一方、NLFの武器も決して旧式と はいえなかった。確かに武器以外の物資の不足は事実であり、ゴムタイヤから作った履物(ホー・チ・ミン・サンダルと呼ばれた。)撃墜して航空機から剥ぎ 取ったアルミ板で作られた食器などが使われていた。しかし歩兵用火器はAK47突撃銃、RPG2・7擲弾発射機などアメリカ製の同種のものより優秀な兵器 もあった。もちろん大砲、戦車などの重火器は皆無に近かったが、都市周辺、山岳地帯などの戦闘ではそれらの役割は大きくなかった。

こ こで南ベトナム軍とNLFの戦闘の典型的な例を一つ取り上げてみよう。1963年1月初め、NLFの第514大隊(正規部隊約400名)が駐屯する”オウ ムのくちばし地区“にあるラジオ・ステーションを51名のアメリカ人アドバイザーを含む1個連隊(約2,500名)の南政府軍が攻撃した。兵力から見れば 1/5程度のNLFの反撃は極めて有効で、戦闘開始後数分にして輸送ヘリコプター2機が撃墜された。また他の1機は、エンジントラブルで不時着を与儀なく された。南軍は支援砲撃を強化し、敵陣地を叩いた。その後、南ベトナム空軍機が爆撃を行い、APCに乗った歩兵が接近した。しかし、それでも400名の兵 士が守る防御陣地を抜くことができなかった。

再びヘリコプター で増援兵力が送られたが、これも強力な対空火器によって損害を受けた。陽が落ちるとNLFは徐々に撤退し、西方の山岳に姿を消してしまった。この戦闘で、 南側は3名のアメリカ人を含む65名が戦死、負傷者は106名であった。また5機のヘリコプターが破壊され、11機が損傷を受けている。

戦果の方は公表されていないが、NLF側のほとんどが脱出に成功したと推測された。次の戦闘の例は1964年7月初旬のものである。

南 ベトナムの北部ナム・ドン特殊部隊キャンプ(アメリカ人アドバイザー12名、民兵300名)が約800名のNLFの攻撃を受けた。この時の天候は悪く、ア メリカ軍、南軍の航空支援は不可能だった。キャンプは完全に包囲され、NLFの一部は基地内に侵入した。危機が伝えられ、悪天候の中28機のヘリコプター が着陸、93名の兵士、弾薬、医療品をキャンプに送り込んでようやく防御体制を整え、南軍は敵を撃退することに成功した。戦闘の結果2名のアメリカ軍人、 1名のオーストラリア軍人、55名の南軍兵士が戦死した。一方、NLFの損失は62名である。

この2つの戦闘の例を見ると、重火器、ヘリコプター等を持たないNLFが極めてうまく戦い、強力な敵とほぼ同等の損失しか出していないことがわかる。 1960年代前半南政府軍対NLFの損害比率は1:2程度と南側は発表しているが、ここの戦いを見ていると1:1〜1:1,5という数字の方が正確なよう である。このように南ベトナム軍は装備も良く、兵力も大きいにかかわらず充分な戦果を挙げ得なかった原因は数多く考えられるが、アメリカの分析として、

  • 軍高官の総てがサイゴンでの地位獲得競争に力を注ぎ、地方の戦闘をおろそかにした
  • 勢力争いと度重なるクーデターに対処するため、優秀な部隊をサイゴン周辺にのみ配置した
  • 政府軍の一部は常に家族と共に行動しており、軍の移動が迅速にできなかった
  • 軍の規律が徹底されず、そのため民間人の協力を得られなかった

ことなどを指摘している。一 般的に南政府軍とNLFの戦闘は、兵力が等しければ必ず後者の勝利に終わったと見てよい。このような実態を考えると、アメリカ軍が完全に撤退した1973 年8月から1975年3月までの約1年半、南政府軍が独力でNLF・北軍の攻撃を持ちこたえたこと自体が奇跡に近い。先にも述べたように、この間共産側は 自分の方から大規模な攻撃をかけた場合、再びアメリカ軍が介入してくる可能性を推し量っていたに違いない。そしてその可能性が極めて少ないとの結論が出 で、それが75年春の一斉攻撃へとつながったのである。

前述の通りこの最終攻撃の時でも兵員数、装備とも南軍はNLF・北正規軍の1,5〜2倍を有していた。それにもかかわらず、わずか2ヶ月にして首都が占領され、 国家は滅び去ってしまったのである。この事実は、やはり南政府軍の本質的な弱さをさらけ出した結果とはいえないだろうか。

ベトナム戦争-1975年<<南ベトナム軍の戦闘>>南ベトナム政府の崩壊

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