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南ベトナムでは政府側に新しい問題が起こっていた。仏教徒との激しい対立である。数年前から続いていた対立は、この年に入ると激化し、ゴ・ジン・ジェム政権の崩壊と南ベトナム政府の弱体化の大きな原因のひとつとなる。
本来、ベトナムの国教は疑いもなく仏教であった。しかし南ベトナムの支配階層は、フランス植民地時代に布教されたカトリック教徒が多く、したがって仏教会組織が被支配者階層の国民の不安を取り上げて政府を攻撃すると、ゴ政権(全部かカトリック教徒)は過敏に反撥し、仏教指導者への弾圧を強めていった。仏教の指導者が少しでも反政府運動を展開すれば、ゴ一族と軍部は徹底的に弾圧を加え、この有様は現地に滞在している外国人にさえ異常と思われるほどであった。そして国民の大多数は仏教徒であるから、この事実は著しく反感をあおることになる。
63年からこの弾圧は一層強まり、ほとんどの寺院は閉鎖された。これに反対する多くの僧侶は、教義の上から武器を持って抵抗できないため、ハンスト、はたまた焼身自殺という強硬な抗議の手段をとりはじめていた。とくに5月はじめの統一仏教協会解散命令が出されたことに対し、翌月から抗議の焼身自殺が続発した。
この模様は新聞、TV全世界に放送され大きなショックを与えるとともに、”南“政権の独裁ぶりを何よりも強く印象づけたのである。アメリカ政府も遺憾の意を表明し、またアメリカ国民は自国の政府がこのような政権を―いかに反共的であったとしても―支援している事に疑問を感じはじめた。そして間もなく、これを決定づける事件が起こった。
僧侶の自殺についてコメントを求められたゴ・ジン・ニュー(大統領の実弟)の夫人が「あれは単なる坊主のバーベキュー料理である」といった言葉がTVから流されたのである。夫人は後に報道によって言葉の意味が変えられてしまったと弁解したが、それによって国民の敵意が弱められることはなかった。この言葉には欧米からも非難の嵐が浴びせられ、アメリカ政府はゴ・ジン・ジェム政権に完全に見切りをつけた。
9月に入り、アメリカはゴ大統領に退陣を勧告する。これが拒否されると軍部によるクーデターが画策された。11月1日南ベトナム軍部は―アメリカの暗黙の支持のもとに―クーデターを実行した。ゴ兄弟は射殺され、1954年以降10年近く続いたゴ・ジン・ジェム・の支配は終わりを告げた。
この後を継いだのは、軍の長老ドン・バン・ミンである。しかし相変わらず政情は不安のままで、翌年1月、再び軍部のクーデターが発生するのである。また政府と仏教徒の対立は完全には納まらず、くすぶり続けながら結局南ベトナムの滅亡まで持ちこされる。
もともとどんな種類の宗教であっても、無神論を唱える共産主義とは相容れるものではない。共産主義国の総ては―建前上は―宗教は認めない立場をとっている。それらの原則を学ばず、本来なら味方となるべき仏教会を弾圧した南政府首脳の無能ぶりにはあきれる他はない。
この一連の出来事はアメリカ政府と国民にとって『反共産主義であれば、どのような政府でも良い政府である』という認識を根底から揺さぶるものであった。しかしこの事実にアメリカが気付くのがあまりに遅かったといえる。少なくとも1960年までに南ベトナム政府が大多数の国民の支持を本当に得ているかどうか、探る努力をすべきだったのである。
一方、この頃の南ベトナム内の戦局はどうなっていたであろうか。まずこの年の2月、アメリカ総合参謀本部は戦闘守則を改正した。これはベトナムにおけるアメリカ軍の役割を顧問団(Advisory Group)から顧問軍(Advisory Force)に変えたことによって現れている。
これによってアメリカ軍人が武器を持って直接敵と交戦することが法律的に可能となった。そしてこのあと、アメリカ軍は徐々に南ベトナムにおける戦闘の主役の座を占めるようになる。
一方、強化された政府軍も、前年まで採用していた拠点確保の戦術を変更し、機動戦を主体とすることになった。また同じ時期にNFL側も戦術の転換を行なっている。
これは攻撃の規模を拡大し、敵に対する打撃力を大きくすることが目的であった。1963年の両軍の戦略目標は
政府軍 : 戦略村構想の確立
機動戦術への移行
NLFの拠点、補給所への攻撃
解放戦線 : 戦略村構想の破壊
政府軍の中規模基地への攻撃強化
などとなっている。
NLFの攻撃規模は前年の100〜500名(中隊規模)から500〜1,000名(大体規模)へと拡大されている。また戦闘地域は変化がなく、メコン・デルタと中部が主体で、サイゴン周辺と海沿いの都市は比較的平穏であった。
1963年の戦死者はアメリカ軍78名、南ベトナム政府軍8,100名、NLF20,600名とされている。また前年から続々と完成しはじめた戦略村は、その一方でNLFの激しい攻撃の目標となった。これは、もし戦略村構想が―NFLと住民を区別する目的が―成功すればNFLの所在が明確にされることから、彼らとしてはどのような犠牲を払っても破壊する価値が目標だったといえる。
11月のある日には、ベトナム全土で187の戦略村が同時に攻撃され、そのいずれもが大きな損害を受けている。こうなっては村に入るべき農民の間に戦略村への入村を拒否する動きが出ても不思議ではない。
結局、計画は莫大な費用と人手を投入しながら、1964年の中頃までに完全に放棄されるこにとなる。
南ベトナム情報省は1963年10月11日、「戦略村計画が”成功裡、かつ完全に“終了した」と発表したが、翌年以後に発表された報告書の中からは”戦略村“という言葉は姿を消している。
この年の11月22日には、まさに全世界を震撼させる大事件がアメリカで発生した。ジョン・F・ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺されたのである。彼は前任のドワイド・D・アイゼンハワーと共にベトナム問題に強い関心を持っていた。そして、アメリカ政府首脳としては珍しくゲリラ戦および対ゲリラ戦への理解を示そうとしていた。これは彼がNLFの活動を評価し、フォート・フラッグに対ゲリラ戦学校を設立したことからも証明される。
ケネディーの死がアメリカのベトナム政策にどのような影響を与えたのか、まだはっきりしていないが後を継いだリンドン・B・ジョンソンがケネディより正規軍重視であったということは事実である。こういったアメリカ国内の混乱も共産側に有利に働いたと思われる。
この年の後半、アメリカ軍事顧問団の総数が1万名を大きくまわった。また在ベトナムのアメリカ軍属および民間人の数は約10万人に膨れ上がっていった。
軍事顧問団が直接戦闘に加わる機会が増すにしたがって、NLFの攻撃もまたあめりか人を対象にすることが多くなってきた。アメリカ人の宿舎、映画館はこの年の終わりから次々と爆弾によるテロに襲われることになる。またベトナムのアメリカ人の増加にほぼ比例して、NLFに対する北ベトナムの援助も増加している。
ラオスの東部山岳地帯と、ベトナム西部高原地域のホー・チ・ミン・ルートの動きは次第に活発になっていた。
もちろん
北ベトナム ⇒ NLFへの援助
ソ連・中国 ⇒ 北ベトナムへの援助
という図式はこの年以前から確立されていた。そして翌年からの戦いは一気に拡大し、NFL・北ベトナム軍 対 南政府軍・アメリカ軍の対決という様相を呈する。
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