翌25日には、連合軍の攻勢はさらに勢いを増し、とりわけ第18空挺団は目覚しい進撃を続けていた。予備として後置されていた第82空挺師団も、地上部隊として前進を開始し、各師団の先頭部隊は各地で数百名単位のイラク兵を捕虜としていた。この頃になると、投降した捕虜の供述などから国境付近に配置されていたイラク軍の実情がほぼ解明し、それによると、1ヶ月以上に渉った空爆で指揮系統と補給線を分断されたイラク軍は、備蓄食料を食べ尽くしており、完全に戦意を喪失していた。また、陣地防御の頼みであった砲兵部隊が事前の空爆と砲撃で壊滅しており、その絶望感からほとんど抵抗せずに部隊規模での投降が続出していた。しかし前線からの報告によると、戦意喪失には効果があった空爆も、イラク軍の地下壕の中までは被害が及んでいない事が大半であり、掩蔽壕に篭るイラク軍に対し、空爆だけではたいした損害を与えていない事が判明すると、シュワルツコフは各部隊指揮官に対し前線を覆いつつある楽観的ムードを払拭するように厳命した。この段階で連合軍部隊はまだイラク軍最強と言われる「共和国防衛隊」に遭遇していないという現実があった。

地上戦が開始される以前、イラク側は連合軍の攻勢がクウェート正面に指向されるものと想定しており、この地域に多くの部隊を展開させていた。ペルシャ湾からワジ・アル・パチーンまでの200kmに渉る国境沿いの前線からクウェート市周辺に19個師団を配備しており、さらにワジ・アル・パチーンからイラク南部の要衝バスラに至る約150kmの地域に共和国防衛隊の5個師団と湾岸戦争勃発後に編成された3個機甲師団が機動予備として配備されており、連合軍がクウェート正面で攻勢を開始すれば、西側面から反撃する手筈になっていた。こうしたイラク軍の防御計画は、連合軍の主攻勢がワジ・アル・パチーン西側に設定されたことによって裏目に出てしまった。第18空挺団の進撃がクウェートとバスラを結ぶ幹線道路に向かって時計回りに進んできておりおり、圧倒的な敵制空権下で満足に移動もできないイラク軍は、退路を断たれてクウェートで包囲される危険性が出てきてしまった。一方のクウェート正面を担当する海兵隊の2個師団は、敵の配置兵力が多かっただけに投降してくる捕虜の数も膨大な数となり、遂には捕虜を後送するための車両がなくなってしまい、これ以降に投降したイラク兵捕虜は武器を取り上げられたうえで、勝手に南へ歩いていけ、と指示されるようにまでなってしまった。また、海兵隊は本来長距離の陸上行動を想定した編成とはなっていないため、イラク軍の密度が高い地域を進撃するにつれて軍全体の機動力が鈍り始めた。
第1海兵遠征軍の両隣には、エジプト第4機甲師団と第3機械化歩兵師団、シリア第9機甲旅団、サウジアラビア第4機甲旅団、第20機械化歩兵旅団から成る「アラブ北部合同軍」が左翼から、サウジアラビア、UAE、カタール、オマーン、バーレーン、自由クウェートとその他イスラム諸国舞台で構成された「アラブ東部合同軍」が右翼からクウェート開放に向けて進撃する計画となっていた。アラブ諸国の軍隊をクウェートの解放を主任務とする戦線に配置した背景には、アラブ諸国の民族的感情に対する政治的配慮からであったが、東部合同軍は2月24日、海兵隊とともにクウェート領内に入り、ペルシャ湾沿いに20kmほどの地歩を確保していたが、北部合同軍のエジプトとシリア軍は、攻撃開始日の2月25日になっても動く気配を見せなかった。戦争終結後に他のアラブ諸国との関係悪化を恐れての事であった。この事態をある程度予想していたシュワルツコフは、第1騎兵師団を移動して間隙を塞ぐよう命令した。エジプト軍は本国と協議の末、ようやく国境を越えて前進することに同意したが、シリア軍は結局、翌日までクウェート領内への進撃を拒みつづけ、サウジアラビア国王の計らいもあって地上戦の全期間中後方部隊として行動し、一度もイラク軍とは交戦しなかった。
2月26日の午前1時半、イラク国営放送はクウェート領内に展開しているイラク軍に対し、クウェート進行前の国境線にまで退却するようにとの声明を発表した。この声明を聞いたパウエル統合参謀本部議長とシュワルツコフは協議の結果、攻撃は当面続行し、イラク軍を叩けるだけ叩いておくべきだと線で合意し、前線司令官に檄を飛ばした。この瞬間、地上戦は停戦協定の設立時期を見据えた「時間との戦い」へと移行した。午前11時、フセイン大統領は国営放送を通じ、クウェート領内からの撤退は本日中に完了するであろうとの声明を発表した。現実にはクウェート領内の全部隊が一日で撤退することなど不可能であるが、撤退という事実を内外に知らしめ、それによって連合軍に対する政治的圧力を高めることがこの演説の目的であった。フセインの演説から1時間後、ソ連が仲介役として停戦の可能性を議題とする国連安保理の開催を要請したとの速報が飛び込んだ。ソ連のゴルバチョフ大統領は、当初イラクから距離を置いて傍観する立場を取っていたが、イラク軍の装備する新旧のソ連製兵器が成す術もなく破壊されるの様子が連日映像で放送されるのを見て、ソ連国内の軍と兵器産業の面子を守るためにも行動を起こさざるを得なかったのである。
ソ連が停戦交渉に向けて動き出したとの報を受けたパウエルは、依然として慎重策を採り続けているように見えていた第7軍に対する不信感を露にし、シュワルツコフ
を通して叱咤した。実際には、第7軍の各師団は26日早朝からブサイヤに布陣する敵兵に対し攻撃を開始していたが、戦場一帯は激しい砂嵐に見舞われており、各機甲師団は全身もままならないような状態であった。それでも第1、第3機甲師団、第1機械化歩兵師団、そして軍団直轄の第2機械化騎兵連隊は、英第1機甲師団に側面を守られながら一つずつ敵拠点を潰していったが、突然それまでの敵とは反撃の仕方が異なる部隊に遭遇する。第7軍の攻勢方向に展開していたのはイラク軍共和国防衛隊第3機械化師団「タワルカナ・アル・アラー」で、同師団は第12機甲師団と共に地図上でいう「73イースティング」で米第2機械化騎兵連隊に襲い掛かった。
同連隊はM1A1戦車130輌、M3A2歩兵戦闘車110輌、M113APC50輌、M557コマンドポスト30輌、M109自走砲24輌、AH-64を含むヘリコプター80機を装備し、主任務は第1、第3機甲師団の前衛としてイラク軍警戒線を突破し、突破後には敵主力を捕捉、捕捉後は本体と交代して第3機甲師団右側に展開し警戒線を張ることであった。イラク軍は同戦場に220輌の戦車と622輌の各種装甲車を投入し西向きに布陣していた。第2機械化騎兵連隊はこの戦争を通じて初めて危機的な状況に陥ったが、戦場を覆う砂嵐の中イラク軍のT-72戦車が照準手間取っている間に、M1A1の優れたFCSは確実にT-72を捕らえ、装備する120mm滑腔砲から発射されたAPFSDSが次々に命中していった。結局前哨戦で8輌、主戦で28輌のT-72と16輌のBMP-1を撃破され、状況の不利を悟ったイラク軍指揮官は、砂嵐に紛れて戦車の残骸を残したまま退却していった。
地上戦開始以来、一部部隊を除き満足な抵抗を見せることなく崩壊していった感に見えるイラク軍だが、その原因は決して空爆による継戦能力の低下だけではなかった。イラク軍は1980年から8年間続いたイラン・イラク戦争による高級将校の喪失に加え、その後軍上層部で起こった半フセイン勢力に対する粛清で多くの有能な人材を失っており、正規軍の士気は、イ・イ戦争開始時に比べて大きく劣っていたのである。しかし、事実上フセイン大統領の直轄指揮下にある共和国防衛隊は、そのような人的損失も最小限に抑えられ、連合軍の猛烈な空爆下にあっても旺盛な士気を保ち続けていた。激戦の末にブサイヤを占拠した第7軍は、前進を続けることよりも、前線部隊と国境の間にいる孤立したイラク軍残党の殲滅を優先し、部隊を反転して南へと向かわせようとしたが、シュワルツコフは東へと進撃し、共和国防衛隊を捕捉殲滅するよう強行に指令した。26日夜半に第7軍はイラク軍「タワルカナ」師団隷下の第9機甲旅団と第18機械化旅団に襲い掛かり、砂嵐から大雨と変わった中、第2機械化騎兵に替った第1歩兵師団が先陣を務めた。対するイラク軍は「蜘蛛の穴」と呼ばれた連結陣地と、ダックインさせたT-72戦車で応戦したが、この戦闘でもM1A1戦車は夜間悪天候下で優秀なFCSの威力をまざまざと見せ付け、T-72を含む300両以上の走行車輌を破壊し「ノーフォーク」地域の敵を一掃した。
第7軍の共和国防衛隊に対するサーチ・アンド・デストロイは翌27日も続き、前夜に激戦の部隊となった「ノーフォーク」の北側を進撃していた第1、第3機甲師団は、バスラの西南西約100kmの地点で共和国防衛隊第2機甲師団「メディナ」の戦車部隊と遭遇する。米空軍の誇る戦車攻撃機A-10と攻撃ヘリが飛び交う中、双方の戦車数百輌が入り乱れる大戦車戦となったこの戦場で、やはりM1A1はその優秀性を遺憾なく発揮し、イラク軍戦車を一方的に破壊して戦場の主導権を奪っていった。同日夕刻、大損害を蒙った「メディナ」師団は残存兵力を北へと交代させていった。この「メディナ・リッジ戦車戦」と呼ばれる戦闘は、湾岸戦争の地上戦における最後の激戦となり、その後は壊走するイラク軍を追っての追撃戦へと移行する。
追撃戦は、戦線背後にあるユーフラテス河に掛かる橋が空爆によって全て落とされていたこともあってイラク軍の退却は遅々として進まず、河の南岸に沿って走る国道8号線は敗走するイラク軍部隊の車列によって埋め尽くされており、連合軍の攻撃機とヘリコプターはこのイラク軍を一方的に撃破していった。
クウェート正面の戦線では、海兵隊とアラブ諸国軍クウェート奪回作戦が大詰めを迎えようとしていた。2月27日の早朝、サウジアラビア軍のM60戦車を戦闘に、政治的配慮からアラブ諸国軍の部隊がクウェート市内へと入った。イラク軍は既に北へと退却した後で、クウェート市民の熱狂的な歓迎に迎えられながら「アラビア通り」を凱旋行進した。クウェート市内からバスラへと通じる道路には、依然としてイラク軍将兵が北へと退却を続けていたが、クウェート国内でのイラク軍の抵抗はほぼ完全に鎮静化し、イラク軍の国連決議第660号の不履行によって発生した連合軍の武力行使はここにその目的を達成したのであった。
2月27日の深夜、イラクは国連に対し国連決議第660号の受諾を正式に通告し、これを受けたクウェート国からイラク軍が一掃されたことによって当初の戦争目的を達成したブッシュ大統領は、残存するイラク軍部隊を殲滅すべきという軍上級指揮官の意見を退け米東部時間の午後9時(現地時間では翌朝午前5時)、テレビ演説で連合軍の勝利を宣言した。シュワルツコフは当初、パウエルと相談してペルシャ湾上の戦艦「ミズーリ」を停戦会談の会場にしようと考えたが中止され、クウェート国境から3kmほど北にあるサフワンというイラク軍の飛行場をその会談場所に指定した。フセインからイラク側全権大使として派遣されたアハマド中将とシュワルツコフを長とする連合軍側の代表団は、捕虜の即時変換、クウェート内に埋設された地雷原の除去、停戦ラインの設定などの内容を吟味し、イラクが連合軍側の要求を全て受け入れることで終了した。俗に「100時間戦争」と呼ばれるこの戦争はイラク軍の完全な敗北と言う形で幕を閉じ、連合軍側の約150人の戦死者と37名の行方不明者、330人の負傷者に対し、イラク側は研究者の間で数字に差はあるものの、12,000〜17,000人の戦死者・行方不明者と35,000人前後の負傷者を出し、人的損失の割合では実に1対100という圧倒的な勝利で終わり、ベトナム戦争の後遺症で苦しんでいたアメリカ軍は、この一線で完全にそのトラウマを払拭し、世界最強の軍隊としてその自身を取りもどづことに成功したのである。
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