湾岸戦争 --空爆開始--

1991年1月16日現地時間午後11時ごろ、サウジアラビア領内から発進した米第101空挺師団所属のAH-64が9機、UH-60が1機からなる編隊が、イラク国内に侵入した。この部隊の任務は、連合軍の空爆に先立ちイラク軍の早期警戒レーダー施設を破壊する事であった。この攻撃でイラク防衛網に小さい穴を穿ち、ここから首都バグダット及びその周辺の軍事施設をめがけF-117A“ステルス”攻撃機が飛び込み、それに呼応してペルシャ湾に展開する米艦艇群からBGM-109「トマホーク」巡航ミサイルが発射された。これは、ワルシャワ条約機構軍以外では最強と言われたイラク軍の防空網を破壊するために米軍が描いた巧妙なシナリオであった。

首都バクダットを攻撃されたイラク軍は、闇夜に現れた突然の侵入者を排除すべく、防空レーダーを一斉に起動した所でSAM破壊任務に就くF-4GがEF-111Aに支援され、南から侵入し脅威率の高いレーダーから破壊していった。空軍とほぼ同時に、海軍のEA-6Bに率いられたF/A-18とA-7Eが首都周辺部に西から忍び寄り、この方面のレーダーを徹底的に破壊した。攻撃開始3日目には、発射されたイラク軍の保有するSA-2、SA-3、SA-6などのレーダー誘導式SAMのうち、約85%が無照射で発射される効果を見せた。

これら一連の攻撃によって穴だらけになったイラク防空網の隙間から、トルコ領内から飛び立ったF-16C、F-15Eなどが侵入しイラク領内の道路や鉄道、発電所などのインフラ設備に対し各種誘導爆弾で攻撃を行い、また、クウェート領内のイラク軍基地に対する攻撃は英空軍のトーネードIDS(攻撃機型)や仏空軍のジャギュアが攻撃を行なった。1月の終わりまでにはイラク領内にあった28ヶ所の発電、変電施設は全て攻撃され、電力供給量は戦争開始以前の4分の1以下にまで低下していた。また、交通、通信網は言うに及ばず上下水道も大きな打撃を受けており、アラブ諸国の中で最も近代化が進んでいたと言われていたイラク国民の生活レベルは発展途上国でも最低レベルに低下していた。

2月に入り連合軍は爆撃の当初の目的である「イラク軍の指揮系統と防空部隊及び各種工場に対する攻撃」は完了したと判断し、以後は第2段階として「イラク軍の補給集積所とそのライン」への攻撃へとシフトしていく。これは、言うまでもなく来るべき地上戦に対する準備行動である。一方のイラクは、連合軍の爆撃に対し新たな局面を作り出そうとした。


1990年9月23日、フセイン大統領はバグダッドで開かれた首脳会議の席上で「戦争の規模拡大」の方針を明らかにしており、外交努力による戦争回避がほぼ不可能となった12月24日には、彼はイスラエルの首都テルアビブへの攻撃の可能性を示唆していたが、連合軍による空爆開始の翌日である1991年1月18日午前3時ごろ、かねてからの予告通りイスラエルのテルアビブとハイファに向けて、旧ソ連製SSMであるR17E「スカッドB」をイラク軍が独自に改良を加えた「アル・フセイン」を発射した。フセイン大統領の目的は、イスラエルをこの戦争に巻き込む事によって連合軍の一画を成すアラブ・イスラム連合軍の結束に楔を打ち込むことであり、また、当初に予見した通り聖地メッカに異教徒の軍隊を引き入れたことに対するサウジアラビア王室への反発が表面化しており、もしイスラエルが反イラク陣営に加われば、長年イスラエルと対決してきたアラブ・イスラム連合が反イラク陣営から離脱する事も十分考えられることであった。この問題を大きくしたくないアメリカは、イスラエル指導部からの勧告もあって、報復攻撃の自重を申し入れ、イスラエル国内にパトリオットSAMを配備し「アル・フセイン」SSMの迎撃を行い、同時にイラク西部に展開していた移動式SSM発射装置を空爆によって破壊した。最終的にイラクはイスラエルに向けて計39発のSSMを発射し、この攻撃による直接的被害で2名の死者と230人の負傷者が出たが、イスラエルの国内世論もあって最後まで報復を自制し、フセインの画策は失敗に終わる。

2月21日、アメリカ中央軍司令部は配下の地上部隊に対し出撃準備を行なうように命令し、その日の夜には地上戦の開始時間が各指揮官に通達された。攻撃開始は現地時間2月24日午前3時、作戦名「デザート・セイバー」が開始される。

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