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イラク側の計画では、侵攻作戦の初期段階で電撃的にクウェート市内へと突入し、ダスマン宮殿などの主要な王族の居住地を占領して、ジャビル首長やサアド皇太子兼首相らを拘束する手筈となっていた。しかし、一般市民には知らされてなかったものの、政府上層部にはイラク軍に侵攻の可能性ありとの警報がもたらされており、国外脱出への移動手段が手配されていた。ジャラフを占領したイラク軍は、計画通りそこから30km東へ位置するクウェート市へと進撃し、市内にあるダフマン宮殿を50両の戦車で包囲したが、その時にはすでにじゃビル首相の一行は隣国サウジアラビアへと続く道路を南へと向かっており、ただ一人残っていた首長の弟であるシャイフ・ファハドが数人の護衛兵と共に残っていただけであった。ファハドは、続く銃撃戦で戦死してしまう。イラク側の計画としてはクウェート上層部の王族を捕らえた後に、併合の最後通牒を突きつける予定であったが、取り逃がしたとの報告を受けてフセイン大統領は、反シャビル派による介入要請を受けて侵攻したという大機名分を掲げたが、この計画と首班として名前を挙げたクウェート陸軍大佐が実は現役のイラク軍将校である事が発覚し、侵攻の正当性を主張しようとした目論見は、開戦劈頭から脆くも崩れ去ってしまう。
イラク軍によるクウェート侵攻の一報を受けたホワイトハウスは、アメリカ東部時間で8月1日午前9時(現地時間2日午前5時)頃で、ホワイトハウス地下の会議室に設置されたモニターを通じて軍と関係者からの報告を受けたブッシュ大統領は、翌2日午前8時に緊急会議を開いて在米のイラク資産とクウェート資産の即時凍結措置を発表した。
一方、ニューヨークの国連本部では、イラク侵攻の報せを受けた各国代表が緊急の安全保証理事会を開き、イラク軍のクウェートからの撤退と侵攻前の原状回復を求める安保理決議第660号を賛成多数で可決した。イラク側ので方を見誤ったアメリカではあったが、この時点では軍事力を行使してイラク軍をクウェートから撤退させると言う選択肢は議論されておらず、米上層部の関心は引き続きイラク軍がサウジアラビアに侵攻するかという点に注目されていた。サウジアラビアはアメリカを含む西側諸国にとって最重要の石油産出国であり、この国の安全が米中央軍の最優先課題に位置付けられており、侵攻3日目の8月4日にはキャンプ・デービットで首脳会議を開いている。この会議では、サウジアラビアへ米軍を展開させる際の問題点の報告を受け、サウジ防衛に必要と考えられる全兵力の展開には3ヶ月、と試算された。しかし、イラク軍をクウェートから撤退させない限り問題の根本的解決にはならず、そのための兵力が展開するのにかかる時間は概ね8ヶ月から10ヶ月と試算された。8月5日、ここでブッシュ大統領は、記者団の質問に対しにイラクとの全面対決の道を選んだ事を明言する。
8月7日、ブッシュ大統領はサウジアラビアへの派兵を正式に決定し、これは「砂漠の盾(デザート・シールド)」作戦と命名され。この決定を受けて統合参謀本部は同日中に、サウジに対する派兵の第一陣として第1戦術戦闘航空団のF15戦闘機48機、RDF(緊急展開軍)である第82空挺師団の1個旅団、2個空母戦闘群、AWACS部隊に出撃準備を命じた。
地上戦開始直前、サウジアラビアに展開したアメリカ軍の総兵力は、陸上兵力として陸軍約26万人、海兵隊9万人の35万人。航空戦力が作戦用航空機約890機、海上兵力が空母6隻、戦艦2隻を含む110隻にも及んだ。また、NATOから派遣されたイギリス軍4万人、フランス軍2万人、カナダ国防軍の戦闘機が30機、イタリア空軍の攻撃機8機が実戦に参加した。他に、主だった所ではサウジアラビア軍約11万人、エジプト軍が約4万人、クウェート亡命政府が約1万人。これ以外の各国は数千人規模の派遣に留まった。
対するイラク軍は、クウェート領内に約25万人、要衝バスラ周辺に約13万人、南部のサウジ国境に約5万人の兵力を展開させており、年明けには新たに増援が送られ合計で約56万人の兵力で来るべき連合軍を迎え撃つ覚悟であった。そして、国連などでの様々な外交的努力も実らず、1991年1月9日にアメリカ=イラクの採集交渉か決裂し、1月16日には国連安保理決議660号の不履行に基づく制裁が始まるのであった。
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