湾岸戦争 --クゥエ−ト侵攻と砂漠の盾--

1990年7月中旬、アメリカの国防情報局(DIA)の分析官は、偵察衛星から送られてくるイラク南部の写真に、T72戦車を主体とするイラク軍1個機甲師団が集結しているのを発見した。分析の結果、イラク軍の最精鋭部隊である「共和国防衛隊」隷下の第1機甲師団「ハンムラビ」の所属部隊と判明したが、本来首都バクダット周辺に配置されているこの師団が、何故イラク南部に突然姿を現したかは不明であった。翌朝届けられた写真には、イラク=クウェート国境において、前日に確認された「ハンムラビ」師団の全兵力に加え、共和国防衛隊隷下の第2機甲師団「メディナ」がクウェート国境付近に展開しているのが見て取れた。さらに翌日には、同じく共和国防衛隊に所属する第3機械化歩兵師団「タワルカナ」の出現が確認され、クウェート国境に展開するイラク軍の数は7月19日の時点で3万5千人に達していた。

DIAの分析官は直ちにこの情報をまとめて軍の上層部に提出した。これを読んだ統合参謀本部議長のコリン・パウエル大将は、中東地域を管轄する米統合司令部「セントラル・コマンド」司令官のシュワルツコフ大将に意見を求めたが、イラク軍の南部国境地帯への集結は、クウェートとの石油利権に関する交渉を有利に進めようとする恫喝の可能性が高いとの認識で一致しており、限定的な戦闘は起こり得るが大規模な全面戦争に発展する可能性は低い、と思われていた。しかし、米首脳部の楽観的な予測をよそに、クウェート国境付近に展開するイラク軍の数は日を追う事に増強されていき、7月下旬には8個師団を含む総兵力10万人へと膨れ上がっていた。しかし、米首脳部は、この行為はあくまでも恫喝に過ぎないとの楽観的姿勢を変えようとはしなかった。その背景には、イラク軍の行動には、無線交信の増加や補給物資の事前集積といった戦争準備に欠くべからざる要素が抜けており、軍事上の常識から言って考えられなかったからである。実際、サダム・フセイン大統領が当初計画していたクウェート北部に対する限定的な攻撃から、クウェート全土の併合を目指す全面作戦への転換を決断したのは7月31日の夜だったと言われており、同国国境に展開するイラク軍には、まだ充分な燃料と弾薬は与えられていなかった。

しかし大方の予想とは反対に、8月1日にもたらされた衛星写真には、イラク軍の共和国防衛隊3個師団を中心とする地上兵力とヘリコプター約80機が攻撃準備の陣形を整えている姿がはっきりと写し出され、ようやく事の深刻さを悟ったCIAは、イラク軍に侵攻作戦の可能性を警告する報告書をホワイトハウスに出したが、もはや効果的な対応策を執る猶予は残されていなかった。こうして、偵察手段の発達した現在では不可能とされていた「奇襲による隣国への攻撃」が始まったのである。

8月2日現地時間午前2時、イラク軍の戦車部隊が国境を越えてクウェート領内への侵攻を開始した。この時、定数の燃料と弾薬を携行していたのは共和国防衛隊の戦車2個中隊のみで、その他の部隊は必要最小限の補給物資しか割り当てられていなかった。そのため、イラク側はこの2個中隊(24両)のT-72戦車を部隊の前面に立て、砂漠地帯を道路沿いに南へと前進していった。

イラク軍の侵攻が開始された時、クウェートは陸軍部隊1万6千名、海空軍4600名の兵力を保有していたが,」奇襲による混乱で効果的な対応をとることができず、280両保有していた戦車(チーフテンなど)の大部分が、戦わずしてイラク軍の手に落ちてしまった。クウェート空軍は、アラート任務に就いていたミラージュF1戦闘機12機を出撃させて何とかイラク軍を押し止めようとはするものの、爆装していない戦闘機では効果が無く、イラク軍は軽微な損害しか受けずに数時間で80kmほど前進し、クウェート市郊外の町ジャフラへと迫った。

イラク側の計画では、侵攻作戦の初期段階で電撃的にクウェート市内へと突入し、ダスマン宮殿などの主要な王族の居住地を占領して、ジャビル首長やサアド皇太子兼首相らを拘束する手筈となっていた。しかし、一般市民には知らされてなかったものの、政府上層部にはイラク軍に侵攻の可能性ありとの警報がもたらされており、国外脱出への移動手段が手配されていた。ジャラフを占領したイラク軍は、計画通りそこから30km東へ位置するクウェート市へと進撃し、市内にあるダフマン宮殿を50両の戦車で包囲したが、その時にはすでにじゃビル首相の一行は隣国サウジアラビアへと続く道路を南へと向かっており、ただ一人残っていた首長の弟であるシャイフ・ファハドが数人の護衛兵と共に残っていただけであった。ファハドは、続く銃撃戦で戦死してしまう。イラク側の計画としてはクウェート上層部の王族を捕らえた後に、併合の最後通牒を突きつける予定であったが、取り逃がしたとの報告を受けてフセイン大統領は、反シャビル派による介入要請を受けて侵攻したという大機名分を掲げたが、この計画と首班として名前を挙げたクウェート陸軍大佐が実は現役のイラク軍将校である事が発覚し、侵攻の正当性を主張しようとした目論見は、開戦劈頭から脆くも崩れ去ってしまう。

イラク軍によるクウェート侵攻の一報を受けたホワイトハウスは、アメリカ東部時間で8月1日午前9時(現地時間2日午前5時)頃で、ホワイトハウス地下の会議室に設置されたモニターを通じて軍と関係者からの報告を受けたブッシュ大統領は、翌2日午前8時に緊急会議を開いて在米のイラク資産とクウェート資産の即時凍結措置を発表した。

一方、ニューヨークの国連本部では、イラク侵攻の報せを受けた各国代表が緊急の安全保証理事会を開き、イラク軍のクウェートからの撤退と侵攻前の原状回復を求める安保理決議第660号を賛成多数で可決した。イラク側ので方を見誤ったアメリカではあったが、この時点では軍事力を行使してイラク軍をクウェートから撤退させると言う選択肢は議論されておらず、米上層部の関心は引き続きイラク軍がサウジアラビアに侵攻するかという点に注目されていた。サウジアラビアはアメリカを含む西側諸国にとって最重要の石油産出国であり、この国の安全が米中央軍の最優先課題に位置付けられており、侵攻3日目の8月4日にはキャンプ・デービットで首脳会議を開いている。この会議では、サウジアラビアへ米軍を展開させる際の問題点の報告を受け、サウジ防衛に必要と考えられる全兵力の展開には3ヶ月、と試算された。しかし、イラク軍をクウェートから撤退させない限り問題の根本的解決にはならず、そのための兵力が展開するのにかかる時間は概ね8ヶ月から10ヶ月と試算された。8月5日、ここでブッシュ大統領は、記者団の質問に対しにイラクとの全面対決の道を選んだ事を明言する。

8月7日、ブッシュ大統領はサウジアラビアへの派兵を正式に決定し、これは「砂漠の盾(デザート・シールド)」作戦と命名され。この決定を受けて統合参謀本部は同日中に、サウジに対する派兵の第一陣として第1戦術戦闘航空団のF15戦闘機48機、RDF(緊急展開軍)である第82空挺師団の1個旅団、2個空母戦闘群、AWACS部隊に出撃準備を命じた。

地上戦開始直前、サウジアラビアに展開したアメリカ軍の総兵力は、陸上兵力として陸軍約26万人、海兵隊9万人の35万人。航空戦力が作戦用航空機約890機、海上兵力が空母6隻、戦艦2隻を含む110隻にも及んだ。また、NATOから派遣されたイギリス軍4万人、フランス軍2万人、カナダ国防軍の戦闘機が30機、イタリア空軍の攻撃機8機が実戦に参加した。他に、主だった所ではサウジアラビア軍約11万人、エジプト軍が約4万人、クウェート亡命政府が約1万人。これ以外の各国は数千人規模の派遣に留まった。

対するイラク軍は、クウェート領内に約25万人、要衝バスラ周辺に約13万人、南部のサウジ国境に約5万人の兵力を展開させており、年明けには新たに増援が送られ合計で約56万人の兵力で来るべき連合軍を迎え撃つ覚悟であった。そして、国連などでの様々な外交的努力も実らず、1991年1月9日にアメリカ=イラクの採集交渉か決裂し、1月16日には国連安保理決議660号の不履行に基づく制裁が始まるのであった。

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