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1970年代のアメリカはイラン支持で、イランは有り余るオイルマネーを武器にF-4Eファントム、F-14トムキャットなどの最新兵器を多数購入していた。しかし、1979年11月に在イランアメリカ大使館で起こった人質事件を境に完全な国交断絶状態にあったため部品の供給が途絶し、新たな供給源をイスラエルに求めることになる。また、戦争勃発後は長期化して両国が疲弊し共倒れを願うかのように振舞い、イラン優勢時にはイランを、イラク優勢時にはイラクを支持するなど実際の行動がそれを示している。ちなみに1982年のレーガン政権時代、イラク戦況不利の情報が伝えられた時、米国は「テロ支援国家リスト」からイラクを外し、正式に国交を樹立して以後年間10億ドルあまりの援助をしているが、この時の副大統領は後の湾岸戦争時に大統領職についていたジョージ・W・ブッシュその人であり、国交正常化交渉の特使を務めたのは当時製薬会社社長であり、現国防長官であるラムズフェルドである。当時既に、イラクがイランに対し化学兵器を使った事が確実視されていたにも関わらず、である。
一方のソ連では、この戦争を脱ソ連の姿勢を見せ始めていたイラクを引き止める好機と捉え、友好協定に基づき武器弾薬をイラクに供与すると共に、地対地戦術ミサイルである「スカッドB」の射程延伸型である「アル・フセイン」の開発に手を貸している。このミサイルは物理的効果以上に大きな心理的効果をイラン国民に与え、イランを停戦受諾に追込む大きな要因の一つであった。
1981年6月7日、イスラエルを飛び立った爆装したF-16戦闘機8機と護衛のF-15戦闘機5機がフランス政府からの援助を受けてイラク国内に建設中であった原子力発電所を爆撃し、これを完全に破壊した。この原子炉で使用されるウラン235を用いて核兵器の開発を行なう恐れがあったために、過去4度の中東戦争でイラクと戦ったイスラエルとイランは完成を阻止しようと情報収集に全力を注いでいた。6月11日、イラクのハマディ外相が国連安保理でイスラエルの暴挙を強く非難したが、イラクの核武装を阻止する事が至上であったイスラエルにとっては国際避難も承知の上での出来事だった。そして1ヵ月後の7月24日には、イラン国防次官デハガン大佐とイスラエルの在イラン大使館付武官ニムロディ大佐との間で兵器売買の契約がなされ、イランは長期持久戦の大勢を整える事になる。
周辺各国の恐れた通りイスラム原理主義は広がりを見せ始め、1979年にキャンプ・デービットでイスラエルとの平和条約を締結したエジプトでも根絶したはずであった、ハッサン・アルパンナによって1928年に創立された原理主義組織である「ムスリム同胞団」が息を吹き返し、大統領であるサダトのイスラエルとの宥和政策や親族による特権階級的な振舞いに反対する人々を集め、勢力を拡大していった。そして1981年10月、第四次中東戦争の戦勝を祝う記念式典で暗殺される。実行犯は「ムスリム同胞団」の傍流組織である「アル・ジャマアート・アル・イスラミヤ」のメンバーで、その背後には原理主義運動の大物ウマル・アブド・アル・ラーマン師の司令があったとも言われている。後任には副大統領であったムバラクが任命され、11年にわたるサダト大統領の統治時代は終わりを告げる。
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