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湾岸戦争 --イスラム革命とイラン・イラク戦争--
| 1970年代に入り、イラン国内ではシャー・パーレビ王朝に対する不満が高まり、パーレビ国王はSAVAK(国家公安局)と呼ばれる秘密警察を使って反政府分子を狩り出す。しかし、激しい弾圧は逆に王室に対する国民の不満を増大させる結果となってしまう。民衆の矛先は次第にパーレビ王朝を支援していたアメリカへと向けられ、70年代後半になると反王室と反米を掲げた運動がイラン全土に見られるようになる。1978年1月、イランの首都テヘランの南部にあるイスラム教の聖地コムで、神学生による大規模な反政府デモが発生した。デモ隊と警官隊の衝突により60人あまりの死者を出したこの事件により、イラン国内における反王室運動は爆発的な広がりを見せ、各地で反シャー集会が開催されたほか、海外資本の石油施設で働く労働者の間でストライキが敢行された。このストライキにより国内での石油生産が10分の1にまで低下すると、アメリカ大統領カーターはパーレビ王朝を見捨て、国王に退去勧告をした。そして1979年1月16日、パーレビ国王はイランを脱出してエジプトへと向かい、54年間続いた王朝は崩壊する。
同年2月1日に亡命先のパリから帰還し、国家主席の座に着いたイスラム教シーア派の宗教指導者であるルホッラー・ムサウィ・ホメイニ師は、「イスラム原理主義」を標榜し、資本主義や物質主義、快楽主義などの欧米的価値観に侵食されつつあるイスラム法(シャリーア)の復興を目指した。2月11日、シーア派の最高勲位である「アヤトラ・オズマ」ホメイニはイスラム教の預言者ムハンマドの治世を現代に復活させるべく。イスラムの教えを国政の中心に据えた政権の樹立を内外に宣言した。
中東の湾岸諸国ではイスラム教シーア派が大きな政治的影響力を持っており、特に国民の65%をシーア派が占めるイラクでは、自国のシーア派が原理主義的な反政府活動を起こすのを恐れた。イランのフゼベスタン州(イラク呼称アラベスタン)に面するイラクの南部ではシーア派が大多数を占めており、もし彼等がイランと結託して反旗を翻せば、フセイン政権は窮地に追い込まれる事は自明の理であり、また、大規模な産油地である同地方は両国が互いに領有権を主張し、1975年の「アルジェ合意」で一応の決着は見たものの、国境線についてはわだかまりを抱えたままであった。
以上のような理由でフセインは、「アラベスタン」地方を併合できれば自国のシーア派勢力の力を削ぎ落とせる上に、油田地帯の奪取によって国力の増強に繋がると考え、イランに対する戦争準備を開始する。
1980年9月22日、イラク空軍の攻撃機がイラン領内の空軍基地を爆撃し、戦争が勃発した。イラクの攻勢は、イラン国内が革命後に行なわれた粛清の後遺症もあって順調に推移するかに見えた。初期の混乱から立ち直ったイランは、イラク軍の補給体制の不備、情報判断の甘さもあってイラク軍を押し留めはしたものの戦線は膠着し、調停者も無く互いに決め手を欠いたまま泥沼化していった。
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戦線は何度かの攻守の入れ替わりと共に凄惨なものへと変貌していき、一般市民を狙ったSSMによる都市攻撃や、神経ガスなどの化学兵器までもが使われる。イラクはイランからの石油積み出しを妨害するためと大国を調停者として引き込む両方の目的でペルシャ湾を航行するタンカーを無差別に攻撃するようになると、イランもそれに対抗してイラクからのの原油を運ぶ西側船舶への攻撃を開始し、世に言う「第二次石油危機」で、世界的な原油価格の高騰は戦争が終結するまで続き世界経済に大きな打撃を与えた。1987年5月、バーレーン沖で警戒中の米フリゲート艦「スターク」がイラク空軍の保有するミラージュF1戦闘機に誤射され、AM-39“エグゾセ”ASM2発が命中し37名の死者を出す事件が起こると、同年7月20日、国連安保理は「イラン・イラク戦争の即時停戦を求める国連決議」を採択し、国連事務総長による調停活動が開始された。しかしその後も戦闘は続き、結局1年後の1988年7月18日にやっとイランが国連停戦決議を受け入れ、8年にも及んだ泥沼の消耗戦は互いに得る物もなくようやく集結するのである。
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